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タイプ1の9段階

性格のタイプ―自己発見のためのエニアグラム

性格のタイプ―自己発見のためのエニアグラム

  • 作者: ドン・リチャードリソ,ラスハドソン,Don Richard Riso,Russ Hudson,橋村令助
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2000/07
  • メディア: 単行本
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 上記書籍を参照して要約しました。

 

 

健全なタイプ1

段階1ー賢い現実主義者

 非常に健全なタイプ1は、自分の衝動が怖れていたほどには支離滅裂でも脅威的でもないことがわかるので、自分の人間性を全面的に表に出すことをはばからない。健全さが機能するのに必要な程度に収まっている限りは、自分の必要も感情も抑えつけることはしないが、これは誰でもがそうしなければならないのと同じである。このようにして、超自我が自分自身の中で非理性的で支離滅裂であると宣言した部分は、それ以外の心の部分と平衡を保つようになり、性格全体として統合される。主観の側面と客観的な現実とが同列のものになり、きわめて現実的になって、人生を、そして、自分自身すらも受け入れる。
 自分自身についても非常に現実的なので、非常に健全なタイプ1は並外れて円熟し、分別がある。まだ理想に惹かれてはいるが、それを一方的で息苦しい命令としてではなく、個人として達成する意味を持つものとして考える。すべてを完璧にする必要も、自分自身が絶対的に完璧な存在になる必要も感じない。さらに、超自我が命じる厳格なルールや主観と客観の区別などを外していくにつれ、あらゆる状況に適用できるような理想とルールの組み合わせを一組だけ見つけることはできないことを知る。それは望みのない企てであり、したがって、道徳的に正しい命令ではない。完全な人間になることは、充分にやりがいのあることである。 しかも逆説的に言えば、完全な人間になることによって、人間として可能なところまで完璧さに近づくこと になる。ここまで健全なときには、タイプ1は「天使も同然」の存在であり、偉大で気高い精神を具現する。
 非常に健全なタイプ1は、並外れた判断力を持つので、あらゆる性格タイプの中で最も賢明である。理想にではなく現実に根差しているので、彼らの判断はとびきり素晴らしい。どのような状況にあっても、論理的な理由づけなどを飛び越えて、為すべき最善のことを明察する。非常に健全なタイプ5が世界について最も透徹した洞察と理解を持つように、非常に健全なタイプ1は、世界でどのような行動を取ることが正しく適切なのかについて、最も明晰な感覚を持ち、他者にもそれを指針として探し出すように促す。
 非常に健全なタイプ1は、寛容で自分自身を受け入れるが、他者も同じように受け入れ、他者に寛容である。たいていの人が「寛容」という言葉を使うとき、彼らはそれを「許可できる」という意味に取るのがふつうで、人は自分の好きなことを何でもすることが許されるべきであると考える。しかし、他者に対して寛容で他者を受け入れることは、許可ということと同じではない。真の寛容さとは、よく情報に通じた善意の人たちが到達した意見の差を尊重する能力である。寛容なプロテスタントのタイプ1は、自分自身が選び取った神を崇める自由と同じ自由を、ユダヤ教徒にもカトリック教徒にも、イスラム教徒やヒンドゥー教徒にも認める。これは、寛容なタイプ1が、他者の信仰はどれもすべてが正しいとか、信仰の違いは問題ではないと考えている、ということを必ずしも意味するものではなく、他者にもその人自身のやり方でその人自身にとっての真理を自由に発見させるということである。彼らは、反対の立場や見方の底に流れる深い真理を見つけることができ、その真理を人に伝えるときに、何か特定の表現方法だけにこだわることはしない。さらに、非常に健全なタイプ1は、他者が理解しやすいように真理を語ることができる。タイプ1が持つ理想によって他者が脅かされることはない。
 非常に健全なタイプ1は、自分の考えよりも究極の価値を大切にするので、これほどまでに寛容になることができる。卓越した精神領域を常に念頭に置いていることで、健全なタイプ1は現実に対してより大きな展望を持ち、それがまた、すべてのことを正しい文脈で見る能力を彼らに与える。認識力は非常に深いので、どのような状況下でも、本当に最重要なことに焦点を合わせることができる。文字通りに一目で何が「より大きな善」かを見分ける(もしそれがわからないとしても、現実がその答えを与えてくれるまで彼らは待つことができるので、知らないことが健全なタイプ1を恐れさせることはない)。
 彼らは真理は実在するし、究極の価値は客観的であると確信しているので、他者が正しいとすることが誤りであることに気づく。非常に健全なタイプ1が道徳的秩序に置いている信頼は非常に深いので、自分の目で見て他者の生き方がすべて誤っていても、その人たちを許容する。それは、誤りが最終的に真理に打ち勝つことはないと信じるからである。彼らは、真理は現実の本質そのものであるから、真実であるものは常に勝つと信じる。これこそ、完全に現実的であることがなぜ賢明であることなのかの理由である。叡智は道理を超え、不合理なものはそのことを承知の上で包み込む。それは、物事の真の秩序を知ることであり、したがって、何が正であり善であるかを常に知ることである。
 このように、非常に健全なタイプ1は超越した現実主義者であるが、それは、自分自身の現実に対する個人としての理解を超越してしまっていて、理解も表現もできない何か深遠な段階ですべてが申し分ない「森羅万象はあるべきものとして姿を見せている」 と知るからである。

 

段階2ー理性的な人

 不幸なことに、健全なタイプ1は常にこれほど健全ではない。調和が取れておらず、堕落し、「悪い」人間になるという怖れに屈して、すべてに正しくありたいと願うことでその怖れを埋め合わせる。彼らは、世界、 他者、自分自身と正しい関係を結ぶことで完全無欠性を手にしたい。彼らの自己感覚は、常に理性的、良心的であることが基になっている。
 健全なタイプ1は本当に理性の化身である。きわめて分別があり、思慮深く、理性的な良識の典型である。 そして、段階2でのタイプ1は、前の段階にいたときに比べればいくらか健全ではないとしても、まだ 非常に優れた判断力を持ち、文字通りあらゆる状況において、重要なものをおおよそは見分けることができる。どんな決断を下すにせよ、その結果を知ることができるので、さまざまな問題(特に道徳的な問題)をはっきりと選り分けることができる。彼らはまた、価値判断を下すことを怖れず、「これは正しい、これは誤りだ」、「これはいい、これは悪い」と言うし、自分の判断に対しても、その判断に従った行動に対しても責任を取る。自分の判断をこのように表現するので、それは実際以上に論理的に人の耳に響く。事実、彼らの判断は心の奥深く自分の内臓で感じ取った確信から来ている。タイプ1にとって、正邪は抽象的な分類区分ではない。それは激しい感情の問題であり、調和の取れた善き人生を生きるための中心となるもので ある。タイプ1は、調和の取れた人生を生きることは、健全な判断を下すのに必要な客観性を保っためには、絶対に必要なことだと信じる。健全なタイプ1は、何が正しく何が誤っているかを客観的に判別すると きに、個人の気まぐれや感情に邪魔されたくない。
 非常に客観的なので、自分自身を脇から観察して、自分自身の行動や態度や感情を評価することができる。 誤りを犯したくないが、それと気づけばすぐに自分の誤りを喜んで認める。彼らは、誤った考えにしがみついても、得るものは何もないと感じる。道義に適っていることと真実であることが彼らには大切で、優越感から誤った意見にしがみつくことはない。
 タイプ1は健全な良心を持つので、性格と文化が認める範囲で、正邪や善悪の区別がつく。良心が彼らを動機づけるので、自分が正しいと信じることを行なう。健全なタイプ1は、自分自身の中に自己中心性や狭量さ、理不尽な熱情などが少しでも宿っていればそれに気づき、そういった種類の感情が落ち着くのを見たい。自分が徳に適っているとき、そして、もちろん失敗すれば深い後悔を感じるとき、自分自身に安らかでいられる。
 何にも増して、タイプ1は道義に適っていたく、健全なときには道義に適っている。それも、それとしての自己意識を持たずに。しかも絶対に独り善がりでなく道義に適っていたい。道義に適っていると言っても、必ずしもそれは伝統的な意味において宗教的という意味のことではない。これはそれ以上に意味が広い。タイプ1は廉潔で責任を取る人物でありたく、それに対する自分の見方がどうであれ、神の掟と自然 の秩序には副っていたい。健全なタイプ1の道義性は、中国の老荘思想が理想とするものの中におそらく最もよく現れている。すなわち、天・地・人の三要素が調和を保った人物である。この目標を成就するために、 健全なタイプ1は節度と一貫性を持った人生を生きたい。
 自分の人生で、理性、節度、中庸、公明正大ということがどれほど価値があるかを理解しているので、健全なタイプ1は、自分が内在化させた抑制がいかなる点においても自分を制約するとは感じない。実際に、 良心からの制約がなければ、人間社会は成り行かないと信じる。文明化によって得られた最も価値あるものの多くは、人間が自らの意志として、個人的な報酬よりも高次の長期目標を優先させたことによって得られたものである。
 タイプ1は、どんなものであれ自分に美徳があるとは感じないし、自分が善でありたく、人生の悪と苦悩を味わいたくないという事実すら感じない。徳に適っていることで神から祝福を得るという契約を神と結んだのでもない。善なるものに引きつけられているので、生きるためのさまざまな条件を免じられていると感じているのではない。たとえば、健全なタイプ1は、自分には起こりそうもないことが、他者に起こっているとは思わない。打撃を被ったとき、「なぜ自分に?」と尋ねるのではなく、「なぜ自分にではないの?」と尋ねる方がいい。人生は気楽で苦労がないとは期待しないが、であるからと言って、健全なタイプ1は悲観主義者ではない。彼らは単に現実的であるだけである。

 

段階3ー節操の高い教師

 健全なタイプ1は、良心を持つことによって、優れて道徳的で有益な人生を送ることができる。それは、彼らが正しくありたいと願うだけでなく、正しいことをしたいと願うからでもある。客観的な価値のあることを実行に移したいし、自分の熱情で左右されたくない。そのようしていれば、可能な限り人間的でありつ つも、客観的に正しいことをすることができるだろう。
 前の段階では道義に適っていることが中核となる価値であったが、この段階では真理と正義が視野に入ってくる。したがって、健全なタイプ1は、他者が公正に扱われることに極端に関心を払う。どんなことについても不正ということを嫌う。不正がどこに存在しようが、不正によって害された人が自分の友人であろうが、まったくの見知らぬ人であろうが、自分自身であろうが、関係ない。健全なタイプ1は正義と道義性に燃える。この二つは無味乾燥な原則ではなく、自らの熱情である。他のどの性格タイプよりも、道徳への自らの信念のためには我が身を危険に曝すことをいとわないし、他の誰かに対して不正に振る舞うよりは、自分自身で不正に耐える方がいい(この点で、健全なタイプ1は健全なタイプ8と見誤られる)。
 健全なタイプ1は桁外れな人としての無欠性を身につけ、きわめて倫理的である。嘘をついたり誰かをだましたりすることは、実際問題として考えられない。きわめて節操が高く、個人としての基準があってそこから逸脱したくないし、客観的で合理的な根拠と考えることに基づいて決定を下し、自分の直接の利益は無視して物事を行なう。健全な自己規律を身につけ、自分の行動が長期にわたって及ぼす影響を見据える力がある。たとえば、市民生活では、良心を主張はしても、資力や財力を主張することはない。親としては、自分の子供だけが有利になることではなく、地域社会全体として利益になることを基にして物事を決定する。 信仰を持つ人としてなら、地方当局に従わないことを意味することになっても、自らの信仰が持つ信条に基づいて行動する。一方で、タイプ1はこの点できわめて勇敢になることができ、自らの信条のためなら自分自身、自分の財産、自分の評判、そして自分の生命すらも危険に曝す。彼らが自らの信条を犠牲にしたくな いのは、そんなことをすれば自らの人としての無欠性を損なうことになるし、他者の無欠性を侵すことで、何か本質的なもの、つまり、自分にとって深い満足の源である善なるものと美徳を包容する力を崩壊させることになるからである。実際に、タイプ1は、世界に対して何か積極的な貢献をしたということだけでなく、 何かそれ以上のことを感じたいし、しばしば自分には使命容易ならぬ目的が課せられているという感覚を持つ体験をしたい。
 彼らの人としての無欠性、真理、使命感が結びつくと、非常に責任感があり、信頼できる人物を生む。この点では健全なタイプ6に非常に似るが、タイプ6は、自分が正しいことをしているという再保証を自分自身の外に求める傾向があるのに対し、タイプ1は、自分自身に内在する道徳という羅針盤に繰り返し繰り返し立ち戻る。彼らの責任感は、自分の理想、つまり、人生での使命を成就しようという内面の本能的欲求から生じる。そのことはまた、その目標達成に向けて大きな集中力と動因を(健全なタイプ3のように)与えることになる。健全なタイプ1は自己規律があることが身上である。彼らは一つのことに踏みとどまり、気を散らすもの、慰めを与えてくれるもの、気楽な解決への誘惑などは脇に置いて、自分の目的を達成することができる。
 この段階でのタイプ1は、正しいことを擁護し、他者の良心や善意や公正さに訴え、自分の信念を怖れ気もなくはっきりと表明する。それは誰かが喜ぼうと、喜ばなかろうと関係ない。このように、健全なタ イプ1が社会のために行なう少なからぬ善は、道徳の師、「真理の証人」になって、自らの信条と道徳観を他者に伝えることである。これは、おそらくは教えるということについての最高の形態であり、知識の塊をただ伝達することに限るのではなく、調和ある生き方についての理想像を伝えることになる。正しいことと誤ったこと、また、正しい行動と誤った行動がもたらす結果について明確な観念がないと、タイプ1は、自分には人生の指針がなく、それを見出す手段もないとして、怖れを抱く。
 しかし、健全なタイプ1の特徴は、彼らの良心がまず「彼ら」に語りかける、そういったものは全人類に課せられた義務ではない点にある。健全なタイプ1は、自分個人を手本にして教えるのであって、他者に説教するのではない。他者が自分に耳を傾けても傾けなくても、真理は最後には聞き届けられると確信する。なぜなら、真理は無視することのできない声によって魂に語りかけるからである。

 

通常のタイプ1

段階4ー理想主義の改革者

 タイプ1は、ますます超自我に導かれることによって、超自我に背くときの罪悪感や不安に常に支配されるようになる。もし、何らかの理由によって、他者が自分の信条に無頓着であり、自分の努力は「注意を引く」ことすらないことを怖れるようになると、さらに高い水準ですべてに卓越しようと懸命になり始める。 彼らはあらゆることをもっと良くしたい。理想主義者、政治・社会の革新者、改革運動者、大義を掲げる人になり、自分自身にも他者にも果てしなく改善を追求するように熱心に勧める。
 健全なタイプ1と通常のタイプ1との違いは、通常のタイプ1は自分だけが皆のための答えを持っていると確信するようになる点にある。自分だけが、身の回りに目にする混乱を「解決する」ことができる。個人の良心は、あらゆることに理想を追い求める義務感にまで高まっている。そのため、通常のタイプ1は、倫理的に優越した立場から世界に関わるようになる。それはまるで「物事がどうあらねばならないか、私は知っている。だから私の言うことに耳を傾けるべきである」と言っているかのようである。他者は自分自身ほどにはきちんとしておらず、方向づけられてもいないことを体験として知るようになり、自分の理想が高貴であることを理由にして、高い身分に伴う義務感を感じる。
 通常のタイプ1が個人として理想であると何かを定義づければ、それは他のすべての人にとっての規範となる。彼らは、すべてのものの正しいあり方を自分は知っていると確信する。道徳的な「ねばならぬ」、「ベきである」ということの重みを感じる。タイプ1がこれこれのことをするべきであり、あるいは、してはな らないだけでなく、他の人たちもすべてそうでなければならない。誤りを正し、文盲の人を教育し、無目的の人を導き、他者に「正しい」物の見方を教えるのは、自分にとって義務であると感じる。問題なのは、その正しいことをするのに他者を信頼しないことである(自分がしなければ、誰がするのか?)。
 通常のタイプ1は、人間性についてオリンポスの神々のような見方を取り、自分自身は他者よりもずっと穏健で分別もあると考える。その結果、人類の立法者、法律制定者としての義務があると感じて、万人が従うべきルールをつくる。小さすぎるとか個人的すぎるとかで、彼らの注意や価値判断を逃れるものは皆無である。喫煙、飲酒、シートベルト、テレビ番組の質、ポルノ、ロック・ミュージックなどは、通常のタイプ 1が他者と論争しようとする主題の一例にしかすぎない。この段階でのタイプ1は、こういったことに関して必ずしも攻撃的ではないが、他者に物事を「指摘する」とか、他者の行動から生まれた関連問題を説明することを強要されたと感じることが多い(もちろん、彼らの意見は正しいであろうが、他の人たちを信頼して、そういったことを彼ら自身で見つけさせることはない)。
 彼らは、自分の理想にどれだけ近づいているか、いつも意識しているので、進歩というのは、彼らにとって重要な概念である。自分に関わる領域ではすべて、その進歩のほどを測りたい、少なくとも自分の道徳的な物差しでと強く思う。このように、彼らはきわめて目的意識に溢れ、常により高い目標を視野に入れている。彼らは、テレビを見るのは教育のためであって、断じて娯楽のためではないと感じるかもしれな い。なぜなら、常に自分自身を高め、何か価値あることをしているべきだからである。このことは通常のタイプ1が高尚な大義や目的に参画したり、それを指導したりする理由である。それは、移民労働者のためにピケを張ったり、一政党のために近隣を組織したり、環境問題に対して関心を呼び起こしたり、地方学校のために課税規則を通過させるよう有権者を組織することなど、さまざまである。
 政治・社会の革新者、改革運動者として、通常のタイプ1はどの問題でも自分の立つべき位置が正確にわかるし、伝道者の熱意を持って自分の立場を主張する。ふつうはきわめて理路整然としており、議論をするのが好きで、自分の見解を効果的に示すことができる。しかも、自分の立場は正しいと心の底から信じているので、ものすごく大きな自信を持ち、形のない粘土の塊に熱心に手を下す彫刻家のように世界に挑む。もちろん、彼らの本当の問題そして、他者との間の厄介事はここから始まる。世界、しかも特に他の人々は、自分の改革への衝動のままに造型される粘土の塊ではない。現実はすでにそれ自体の形を持っているのに、通常のタイプ1はそれに別の形を与えたがる。

 

段階5ー規律正しい人

 この段階までにタイプ1は何らかの公的な立場と主張を明確にしているので、家族や友人との間だけでも、私的な感情と理想のための公的立場との間に少しでも矛盾を抱えたくない。彼らは人生のあらゆる分野、特に自分自身の衝動と情動を統御していたい。
 健全なときの自己規律は、素っ気ない効率性と規律一辺倒に堕落してしまっている。通常のタイプ1は、 すべてを律する規律感が欲しい。彼らの厳格な超自我は彼らの感情や欲求に対抗するので、心理状態の二重性が露呈する。すべてを黒か白か、正しいか誤っているか、善か悪か、正しく行なわれたか行なわれないか、で判断する。そこには主観的な好みの余地はまったくないし、あり得ようはずもない。そんなものはただわがまま勝手としてしか見ない。非人間的な規律と秩序が、自分自身も他者も環境も統御しようと試みるための主要な手段となる。
 綿密入念に、しかも、徹底的に、世界をきちんとした(自分自身の内面生活を自分が統御し、あるいは、統御したいと思う厳しさと同じくらい厳しく)分類区分で組織しようとする。彼らは細かいことにやかましい人で、 自分好みの言い方である「万事順調である」ように、考え得る限りすべての不測事態に対して計画を立て、それをやり遂げる(流れ図は、実質上、彼らの現実への対処法を象徴する)。すべてのタイプ1が衝動強迫的なほどにきちんとしているのではないが、この特徴に関して言えば、タイプ1なら必ず、組織立てられていることを絶えず気にかけている。どこにいても規律正しくで、するべきことの表を作り、時間を無駄にしないように注意深く計画して予定表をつくる。通常のタイプ1にとって時間はきわめて重要なものであり、時間の使い方をいつでも詳しく説明することができる。常に時間に正確で、他者にも同じように時間を守ることを強く求める。勤労・勤勉を旨とするプロテスタント的労働倫理をこれほど体現するタイプはなく、彼らは人生は容易ならない事業であると感じる。義務からの解放などはあまりないし、緊張が取れて、やりたいことが何でもできると感じる時は滅多にない。
 考え方もまたきわめて秩序立っている。丹念で、いつも正確で、論理的に区別をつけることに熟達している。曖昧さは面倒の元であるとわかっていて、物事ははっきりと黒白で理解しようと懸命になる。不幸なことに、現実には、物事はそれほど簡単に区分できるものではないのに、通常のタイプ1は、現実は曖昧ではないと決め込んでいる。自分の頭の中で重要度の階層をつくり上げ、すべてをそれで判断して、自動的に階層づけやそれへの評価を割りつける。あたかも「これはあれより優れている」と言っているようなもので、 学校の教師が休日でも何かにつけて順位づけをしないではいられないようなものである。通常のタイプ1は、出来事にはすべて論理的な理由があるはずだと信じていて、誰かが彼らの見方と矛盾するような情報を彼らに示すと、喧嘩腰になる。出来事に具体的な説明を求めるのは、明確な直接の原因がなければ、自分の行動をどうして人に説明する責任を負えるだろう、と思うからである。ご褒美と譴責をどうすれば割り振ること ができようか?
 要するに、この段階での通常のタイプ1は、審判員、会計士、現実の批評家、つまり、フロイトの言う肛門タイプである。彼らは明確な優先順位を持っており、人生で自分にとってあまり重要でない分野は、きちんとさせる衝動が向けられることがあまりない。しかし、優先順位の高い分野には非常に注意を払う。 そういった分野では、あらゆることが整然とし、清潔で、きちんとしていて欲しい。場にそぐわないものや、 どっちつかずのものがあってはならない。時計のような正確さが彼らの目標である。もちろん、タイプ1の規律正しさは、特に彼らが働いている組織や社会全体にとって、多くの優れた効果を発揮する。物事が組織立っていれば、仕事の会議から列車の時刻表やクリスマスの贈り物の包装まで、すべては順調に進行する。 人々が世の中である程度の秩序と秩序を提供する人間を頼りにすることができなければ、成就されるものは非常に少ないだろう。
 しかし、他のどんなものとも同じように、規律正しさも適切さと程度の問題である。通常のタイプ1にとって、くつろぐことはいいことであろう。彼らは、気の向くままに振る舞うことを滅多に自分自身に許さないし、それを許すときでも、今は自由に振る舞うときであると決心したかのように、何かぎこちなく、強制された感じがある。人間関係では、少し勿体ぶった「正しい」やり方で、それにふさわしくあろうとする傾向があって、自分自身を表現するのに礼儀作法とエチケットに頼る。正しい立居振舞いをすれば、個人的な感情を顧みないで社会的に正しく行動することになる。
 通常のタイプ1にとっては、自制することが自分の望みなので、衝動を敵に回し、まるで個人の好みは何か怪しげなものででもあるかのように、自分がしたいことと反対のことをする。映画を見に行くなど、何かを自分がしたいとすると、自分の時間はもっと何か真面目なことに使わなければいけないと感じるので、それを諦めようとする。その反対に、週末に仕事をするなど、何かをしたくないときは、そうする義務があると感じるので、無理にでもそうしようとする。自分の衝動に絶えず抵抗しているので、それまで以上にその衝動によって統御されるようになるのは、皮肉なことである。
 どちらのウイングを持つかでかなり変わってくるが、一般には、通常のタイプ1には禁欲主義的で、謹厳で、純粋培養的な性質がある。それは特に娯楽と自分の欲望に関係する事柄で著しい。タイプ1の中には、 性的な衝動が特に脅威となる人がいるが、それは、そういった衝動は非理性的なものであるだけでなく、禁じられた性質のものであって、厳しい良心に反するかもしれないからである。筋肉はこわばっていることが多い。口をすぼめ、歯を食いしばり、顔と顔は硬直している。「緊張した、張りつめた、こわばった、融通が利かない」という言葉は、彼らのこの段階での多くの振る舞いだけでなく、感情の世界にも当てはまる。
 彼らは自制的であるが、自分自身をそのように考えることは滅多にない。自分には非理性的な衝動と禁じられた欲望があることを非常によく承知している。彼らの視点からすれば、彼らは規律正しく有能であることによって、世の中に尽くしている。しかし、それだけでなく、彼らは自分の熱情から世界を守っている。もしその熱情を解き放ちでもすれば、世界は破滅するだろう。もし望むがままに行動することを自分自身に許しでもすれば、自分の情動は統御から外れてしまい、しかも、最も野蛮な衝動に押し流されて、必ずや自分の心は最も邪悪な罪に堕ちるだろうと怖れる。無意識の世界に何が巣くっているのか、誰が知っていよう? それにはちょっかいを出さないのが賢明であるとタイプ1は考える。
 この段階は、発達の諸段階に沿って堕落するときの転回点である。なぜなら、人生はタイプ1が思うほどには秩序立っていないし、彼らも自分でありたいと思うほどには規律正しくないからである。抑えつけられた衝動は、抑圧に対する防壁を破り続ける。この段階から先では、タイプ1は、非理性的な衝動を自分の抑止力で抑え込んでおけるように、自分自身も環境もこれまで以上にしっかりと統御しようと試みる。内面の秩序を求める欲求も外の世界の秩序を求める欲求も弱めることなく、あらゆるところで無秩序を根絶することに取り憑かれたようになり始める。

 

段階6ー善悪で判断しがちな完璧主義者

 自分の衝動を統御しようと厳しく努めれば努めるほど、通常のタイプ1は自分は羽目を外すことができないと感じる。挙げ句の果てに、自分が懸命に成就しようとしてきた秩序と均衡を他者が「台無しにする」のではないかと怖れ始める。内面からの導きと理想主義からの声は甲高く、しかも、批判的になっている。今や規律正しいことだけでは充分でない。完璧さが求められる。
 自分自身にも環境にも求める規律の正しさや自己統御が実現されなければ、極端に脅かされるようになる。 外から見て取ることはむずかしいが、この段階でのタイプ1は、他者に対する以上に自分自身に対して厳しいことが多い。彼らの超自我は、とげとげしく要求がましくなってしまっており、彼らの態度を全体として要約すれば、「期待に添うことはあったためしがない」ということになる。これは、かつて保護者像が彼らに語った言葉のこだまである。彼らは絶えず物事のあら探しをし、現状そのままに満足することができず、 他者に裁かれるという怖れを過補償して、彼ら自身が「裁判官」になる。彼らが自分自身に正式に許す唯一の情動は、短気、いらだち、敵意、憤慨など、さまざまな形を取った怒りである。しかし、奇妙なことに、タイプ1は、自分の怒りの程度に気づかないのがふつうで、ときには、自分が怒っていることにすら気づかない。怒ることは無秩序で非理性的なことであり、厳格な超自我がその感情を認めることを彼らに許そうとはしないだろう。
 あらゆることに非常に批判的なので、他者に干渉し、にべもなくその邪魔をし、何を為すべきかを絶えず語り、彼らの誤りを指摘し、どのようにして自分自身を向上させるかを説教する。「そう言っただろう」、「私の言うことを聞いてさえいれば、こんなことにはならなかった」というのは、善悪で判断しがちなタイプ1 がよく口にすることである。彼らはあらゆることに批判的である教師然とし、尊大な態度を示し、人に説教をし、叱責する。些細なことにすぐ腹を立て、妥協を許さずに規律を強いる人で、忍耐心がなく、難癖をつけ、文字通りにも比喩的にもすぐに平手打ちを食わせる。通常のタイプ1は、自分のまわりの人たちは怠惰で無責任であると考える(「自分はこんなに一所懸命やっているのに、何で彼らはだらだら過ごしているんだ?」)。何事にも見解を持っていて、それをただの個人的な意見ではなく「真理」であるとして持ち出す。自分も誤りを犯すことがあると、善悪で判断しがちなタイプ1が思うことはない。
 さらに、彼らはまず絶対に自分の意見を変えない。なぜなら、自分の意見は理想に基づいており、その理想は何事についても「正しいこと」がどこにあるかを教えてくれる羅針盤の方位のように固定しているからである。人生は、このように、個々の事象に理想を当てはめる果てしない作業、絶えず誤りを正していくこと、他の誰かが最初に拙劣なやり方をしたことをやり直す終わりのない仕事になる。
 彼らは、他者が失敗したり、他者のしたことに完璧さが欠けていたりすると、まるで皆のしたことで自分が個人的に傷つけられたかのように、憤慨し、怒りでいっぱいになる。誰かが通りを汚したり、自分の知人が税金を払わなかったり、情事に耽ったりすれば、それは自分に対する侮辱になる。他者に向けた自分の批判が正しいとしても、彼らは非常にとげとげしく、癇にさわるような態度を取るので、実際には公然たる無視や反抗を招く。非人間的な効率性は、厳しい教条主義に堕落してしまっている。しかし、それは問題ではない。批判的なタイプ1は、他者を喜ばせることにではなく、他者に正しいことをさせることに関心がある。
 自分自身の生き方では、彼らは仕事中毒であり、四六時中生産的でないと罪悪感を覚える。しかし、完璧主義のタイプ1は、細かいところを気にするので、皮肉なことに、彼らの効率は下がることが多く、それほど動機づけられていない仕事仲間と比べても成果の上がらないことがしばしばである(たとえば、2~3カ所 の小さな傷を治そうとして家具を細かいところまで磨くが、仕上げ塗りをはがすことで終わるかもしれない)。彼らは常にもっともらしく向上を図るが、それは何かが本当に向上を必要としているからではなく、自分の存在を 正当化するために物事を向上させなければならないからである。もちろん、彼らの完璧主義は他者を気も狂わんばかりにさせるので、タイプ1はその人のために(その人と「一緒に」ではない)働くことがむずかしい。 彼らは非常に激しやすく、批判を悪く受け取る。誰も自分ほどにはうまく仕事ができないと感じるので、仕事や決定を誰かに譲りたくない。自分で最初に仕事を正しくやってしまうよりも、誰かを訓練する方が長い時間を取られると感じる。
 当然のことながら、期待に添うことはあったためしがないのであるから、彼らの完璧主義は、彼らが行なうことから喜びを奪い取る。物事はそれが完璧になるまでは決して終わらないし、完璧になり得るものであるとしても、そのためには大変な時間を必要とする。そのため、仕事中毒のタイプ1は葛藤に捉えられる。 働くことを楽しめないとしても、働かないことも楽しめない。彼らは立ち止まることが怖い。
 タイプ1がすべての答えを持っていて、彼らには誰も何も言えないので、人との争い事が増える。その上に、自分では実際にはほとんど何も知らない物事について断定を下す習慣を身につけて、他者に高飛車な態度を取り、やり方を教えなければ正しいことは何もやろうとしない子供に対するように他者に物事を説明する。彼らは人々に対して、当人には何ができ、何ができないかを話してやる気になっていて、結婚生活について若い二人を教育する司祭や、貧しい人に倹約を説く裕福なコラムニストのように、彼らに禁制を課す。
 この段階では、彼らの超自我をなだめることはほとんど不可能になってしまっている。内面からの仮借ない批判の声にかまわないでいることは、タイプ1はほとんどできない。自分に降りかかった基準に合わせたことを証明することに必死になっているが、その基準は高くなり続ける。こうした自責の念に絶えずさいなまれているので、自分自身に積み上がっていくむかつくような非難をいくらかでも取り除ければいいが、 タイプ1が、他者にいらいらし、批判的になることは驚くに当たらない。
 同時に、タイプ1は、自分の完璧主義と自己批判からの休息を必要とする。しかし、それを建設的なやり方でしようとはせず、超自我が最も非難する快楽の中に秘密の慰安場所を見つけようとし始める。酒を飲んだり、町に出て騒々しい夜を過ごしたり、浪費や性的行動やポルノなどが多くなったり、さまざまな「欲望の満足」に耽る癖がつくなどで、超自我が自分に加えている圧力を減らそうとするかもしれない。しかし、 自分が強く主張する考え方に矛盾すると思われてはいけないので、タイプ1は可能な限りこういった行動を他者から隠そうとする。
 「概観」の節で見たように、タイプ1は、自分が完璧でなければならないことに腹を立てている。彼らにとっては、完璧さという重荷が、他者の肩に掛かる以上に、自分の肩に掛かっていることが不公正に思える。 もちろん、完璧を目指して頑張り、完璧であると束の間感じることは、彼らにいくらかの安堵感を与える。 なぜなら、彼らの自己感覚は、正しいと感じること、そして、どこが完璧かを知ることに依存しているからである。しかしそれでも、タイプ1の中では何かが、他者の自由を見ていらだっている。自分は充分に楽しんでいないのに、他の誰かがなぜ楽しんでいて良いのか?

 

不健全なタイプ1

段階7ー不寛容な人間嫌い

 不健全なタイプ1は、客観的な事実としても、誰かの優れた論証によっても、誤っていると証明されることを自分自身に許すことができない。彼らは、自分の言うこと、することのすべてにわたって常に自分は正しい、と完全に確信している。理想は厳格で不気味な絶対的なものになってしまっていて、不健全なタイプ1はその絶対なるものに対しては絶対に妥協しない。
 彼らの理想は妥協のない教義であり、そこから逸脱することはできない。すべての物、すべての人を絶対、正と邪、善と悪、救われた者と地獄に堕ちた者、という見地から見る。中間地帯も、どっちつかずの領域も、例外が生じる可能性もない。彼らは、絶対的な完璧さとの妥協を必要とするような状況を考えることを拒否する。彼らが見るところでは、どんなに小さな不完全さでも全体を台無しにするので、容赦なく根絶されなければならない。しかし、絶対なるものに従って生きることは、それに対応する自分自身の人間性を必然的に否定することである。高く昇れば昇るほど、人間性をそれだけ置き去りにすることになる。彼らは、人間性は愛するが、個々の人間を憎悪する人間嫌いになる。
 完璧主義的な通常のタイプ1は、少なくとも時々は、自分自身を自分が批判する対象に含め、完璧さを達成し損ねたときは罪悪感を感じる点で、不寛容な不健全なタイプ1とは異なる。このようなことは、不健全なタイプ1にはもう起こらない。彼らは自分自身を非難の対象から除外する。不健全なタイプ1は、極度に独善的であり、完璧さという最も厳格な理想を支持していれば、その理想を実行に移しても移さなくても、自分を正当化できると感じる(私は正しい。だから、私の言うこと、することはすべて正しい)。
 事実、タイプ1の超自我は、この段階では非常に毒性を持ち、破壊的になっているので、タイプ1は、精神的に生き残るために、その毒素を他者に転嫁しなければならない。タイプ1のできることに充分に善なるものが何もなければ、唯一の救いは、他者の中により大きな「悪」と無秩序を見つけることでしかないだろう。そのため、不健全なタイプ1は、ますます他者の悪事に注意を注ぐようになる。それが内在化した保護者像の懲罰から逃れる道である。
 怒りは彼らの最も顕著で、おそらく唯一の感情として残る。不健全なタイプ1は、悪事を働く者に正義を行なうとき、完全に非人間的になれると考えたい。しかし、紛れもない復讐心という要素が彼らを動機づけ始めていても、彼らはそれを行使することを自分自身に許せないし、ましてや他者に認めることはない。彼らの自己像は脆く、それは自分自身を完全に善良で道義に適っていると見なすことで成り立っており、しかも、極端に否定的な超自我を補償するものでしかない。完璧な動機づけにもとるものは、どんなものも許すことができない。
 実際には、彼らは、他者の持つ信念やその行為にはまったく我慢ができず、自分に同意しない者は誰でも不道徳で邪悪であると考える。不健全なタイプ1は、怒ったように自分の見解を他者に押しつけ、他者には正しいことをさせなければならないと感じる。その正しいこととは、もちろん彼らが定めたものである。自分の立場を強め、他者には誤っているとか罪を犯していると感じさせるために、宗教、正義、真理、彼らの理想のどれか、またはすべてが引き合いに出されるかもしれない。しかし、皮肉なことに、そうすることで自分自身を奇妙な立場に立たせ、誕弁を用いなければ守れない見解を持ち出すようになる。村を救うためには、その村を爆撃して壊滅させていいと主張したりする。人々を自分の信じている宗教に改宗させるためには、彼らは奴隷に売られてもいい。まだ生まれぬ胎児を守るために、大人の生命は奪われてもいい。 自分が詭弁を使っているのかもしれないことに気づくと、不健全なタイプ1は瞬時も躊躇しない。なぜなら、自分の行為が自分の表明した信念とどれほど矛盾していようとも、自分が精神的に生き残ることは、すべての行為を合理化することにかかっているからである。
 しかし、彼らは他者に激怒しているので、自分の怒りが不合理であることが彼ら自身をすら混乱させる。それなのに、彼らはもちろん自分の怒りは正当化されると感じる。そうであっても、自分の怒りが手に負えなくならないように、彼らは自制を強めようとする。しかし、皮肉なことに、不健全なタイプ1は今までにも増して自制を失っていきつつある。彼らはあまりにもきつく縛られているため、そのきつさ自体が避雷針として作用して、抑圧された感情と欲求が思いがけずほとばしり出る。
 感情と衝動を強く抑え込むために、鬱状態は厳しく、しかも、長期間続くことになる。この状態は、彼らが腹を立て、駆り立てられている性質を持っていることと対比すると、非常に対照的に見える。不健全なタイプ1は、努力はしているのかもしれないが、自分の超自我の攻撃と激しい怒りを他者に転嫁することがまったくできない。怒りの一部は同じように自己にも襲いかかるので、幻滅して疲れ果てることになる。アルコールや薬物の濫用とか、家の修繕や仕事に打ち込みすぎて急激に身体が弱る、というようなことが珍しくなくなる。

 

段階8ー強迫観念にとらわれた偽善者

 不健全なタイプ1は、今や、あらゆることが激怒の的になっていて、それに取り憑かれたように(神経症に罹ったように頭がいっぱいに)なる。しかし、自分自身を統御する必要があるので、怒りのままに行動することができない。その結果、彼らはその非理性的な衝動にかってないほど支配され、衝動強迫的に行動する。
 この段階では、「概観」の節で述べた二重の二元性がいっそう明瞭になる。まず、自分の衝動と、その衝動を抑え込んでおくために必要な強い力との間に亀裂がある。他方、自分自身を統御する必要と、自分の統御が完全に崩れる瞬間との間に亀裂がある。強迫観念は非理性的な思考を統御し、衝動強迫は行動を統御する試みであるが、この二つは、それだけでなく、自分の求めている統御が崩壊しつつあるという事実の徴候でもある。
 強迫観念のような思考が繰り返し彼らの頭をよぎる。しかし、強迫観念はみだらで、神聖を冒潰し、あるいは、過酷なほど暴力的かもしれないので、自分に信じ込ませている信念にとっては大きな脅威になる。強迫観念の強さは神経症的なタイプ1を非常に悩ませるかもしれないので、彼らは悪魔に取り憑かれたと感じるかもしれない。ある意味では、神経症的なタイプ1は、悪魔に取り憑かれて「いる」。しかし、彼らの悪魔は、自分自身に対処することを許したことのない抑圧された感情と衝動である。こういった強迫観念は、絶え間なく極度に抑え込まれたために、ねじ曲げられ、歪められてしまってはいるが、正常な必要と欲望であることが多い。しかしこの段階では、タイプ1の自我は、抑え込まれていた衝動が激発するのを引き止めるだけの基本的な力を欠いている。征服されていた欲望が日の目を見る。その上、神経症的なタイプ1は、自分を本当に混乱させているものを認めることができないので、強迫観念のような思考を転換することができない。混乱させているものは、他者特に自分の苦悩に責任があると彼らが感じる人たちへの強い憤りと憎悪である。その結果、さらに混乱させるような思考で圧倒されないように、多大な時間を費やして自分の思考を統御しようとする。
 自分の本当の問題以外の何かに思考を集中させるために、神経症的なタイプ1は清潔さに取り憑かれたようになるかもしれない。つまり、それは、自分が抑え込んできた衝動と感情に関連のあるものとは別の種類の「汚れ」と無秩序を根絶することである。性的感情と肉体の統御に対する強迫観念は食べ物に置き換えられ、無食欲や大食症(食欲異常亢進)とか、断食や院腸による体組織の衝動強迫的な「浄化」などに至る可能性がある。あるいは、重箱の隅をつつくような掃除の仕方や計算に精力を注ぎ込んだりする。こういった行動が持つ衝動強迫性は、皮肉なことに、平常時の規律正しさや自己抑制と矛盾する。
 しかし、強迫観念には奇妙な適応性がある。なぜなら、神経症的なタイプ1は、自分を完全に意識下に置くこともなければ、完全に衝動のままに振る舞うこともないからである。反対に、彼らの強迫観念は彼らを深い混乱に追いやるので、衝動的と言うのにちょうどいい程度に行動表出し、そのために、専横的で、何につけ矛盾し、偽善的になる。
 神経症的なタイプ1がほとばしり出る衝動によって支配されていることに気づいていないときは、自分が表明している信念とは反対の行動を取るかもしれない。たとえば、性における純潔の美徳は絶対であると説きながら、衝動強迫的な性行動にはまり込んだりする。ポルノを監視するように「強制された」風紀係、婦女暴行者の忌まわしい話を聞かなければならない性研究者、万引きをした裁判官のように、自分が非難していることをする。衝動強迫的なタイプ1は、自分が倫理的な強さは確固としているので試練に耐えられることを証明するために、誘惑に身を曝すことすらするかもしれない。彼らはそれに二つの方法を採る。美徳の名の下に悪徳とたわむれ、時々はそれに屈服する。もちろん、それによって彼らの立場はもっと脅かされるし、その立場上、結果として衝動強迫的な行為が他者によって詳細に調べられることになり、スキャンダルになったり、信望をなくしたりする。
 どんな類の堕落でも、風紀担当高等護民官にとっては、常に一般人の場合より衝撃が大きい。神経症的なタイプ1は、邪悪な行為に引きずり込まれる。なぜなら、感情を完全に抑え込んでしまっているので、自分の情動を否定したり、ねじ曲げたりしてしまっていて、いびつな人間になってしまっているからである。情緒面の生き方が奇形化していることが、神経症的なタイプ1もその衝動も危険なものにするのであり、もともとある衝動自体が必ずしも危険なのではない。

 

段階9ー懲罰的な復讐者

 誰かが、あるいは、何かがとても受け入れがたい感情をかき立ててしまったため、神経症的なタイプ1は、 その感情を直接に処理することができない。この段階では、理想によって動機づけられているとはとても言えるような状態ではなく、強迫観念や衝動強迫が完全に手に負えなくなる前に自制を取り戻すことが、最優先に必要な状態になっている。しかし、強迫観念を強迫観念的になることで解消することはできないし、 衝動強迫を衝動強迫的になることで解消することもできない。そのため、彼らは見かけの上で自分の混乱を引き起こしたと見える原因を取り除くように試みることで、神経症的な葛藤を「解決」し、それによって自分が他者の悪行であると思うことに対する激しい怒りを自分自身に駆り立てる。しかし、本当に危機に瀕しているのは彼ら自身の精神の健全さである。
 彼らの矛盾は非常に深刻であり、強迫観念は非常に強く、しかも衝動強迫は非常に険悪なので、神経症的なタイプ1は後に引くことができない。自分が誤っていたのかもしれない可能性は、分裂しつつある自我にとっては到底受け入れられないことである。彼らはこれまで以上に自分自身を正当化しなければならない。他者は誤っていることが証明されなければならないだけでなく、罰せられなければならない。そして、他者は恐ろしく邪悪なので、有罪を宣告されていいし、殺しても罪にはならない。
 彼らの正義の報復の対象になった人たちに対しては、どんな愛情も、慈悲も、人間的な共感も示されることがない。神経症的なタイプ1は非人間的なまでに残酷になり、持てる力をすべて使ってでも他者が確実に罰を受けるようにする。「彼らは当然受けるべきものを受けているだけだ」というのが彼らのスローガンであり、目的が手段を正当化するので、どんな手段でも用いていい。
 完全に無慈悲で、他者の過ちを許さなくなり、不当な行為や残虐な行為を始めるが、その一方では、それらを人間ではないものの仕業のように見せかける。神経症的なタイプ1は、他者をサディスティックに罰するのは正義が本来果たすべき責任であるかのように振る舞う。今や彼らのねじ曲がった道義性がそのことを公認するので、他者を投獄し、拷問にかけ、火あぶりの刑にすることができる。
 責められることを怖れる性格タイプが、他者を情け容赦なく責める。かつてあれほど正義に関心を注いだ性格タイプが、甚だしい不正の下手人になってしまっている。かつて理性の権化であった性格タイプが、今や完全に非理性的である。

 

感想

健全なタイプ1と通常のタイプ1との違いは、通常のタイプ1は自分だけが皆のための答えを持っていると確信するようになる点にある。

 

完璧主義的な通常のタイプ1は、少なくとも時々は、自分自身を自分が批判する対象に含め、完璧さを達成し損ねたときは罪悪感を感じる点で、不寛容な不健全なタイプ1とは異なる。このようなことは、不健全なタイプ1にはもう起こらない。彼らは自分自身を非難の対象から除外する。

 

エニアグラムを知らない人間から見た場合にも、「健全か不健全か」非常に分かりやすいタイプだと思われる。恐らく段階によらず一貫して、自己を他者に対して偽る事が少ない為。よく言えば正直、悪く言えば頑固。

 

以前「タイプ1の悪役は意外と描きにくいのではないか?」という説を立てたが、タイプ1の説明を見ると実際にそうだと思われる。健全な段階では本人の道徳的価値観が勿論それを許さない。通常の段階では自己批判の精神が残っている。描く際の制約が意外にも多い。

 

(不健全な段階の、本人なりの頭がパーな理想を唱える悪役はそこそこ見覚えがある)

 

タイプ1は裁判官という言葉を用いて語られる事が多い。通常の段階では自らが被告人として登場する事がある(この際の裁判官は「養育者像」だろう)が、不健全な段階では一方的に裁判官として振る舞う。健全な段階にて漸く裁判からは解放されるが、多くの人間が健全な段階に至る事なく人生を終える事を加味すると、法廷で一生を過ごすことにもなりそうだ。

 

ウイング9とウイング2を比べると、ウイング9は人間よりも自然や芸術、動物に興味を示すが、ウイング2は人に強い関心がある。ウイング9は理念に注目するが、ウイング2は人間に注目する。