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タイプ5の9段階

性格のタイプ―自己発見のためのエニアグラム

性格のタイプ―自己発見のためのエニアグラム

  • 作者: ドン・リチャードリソ,ラスハドソン,Don Richard Riso,Russ Hudson,橋村令助
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2000/07
  • メディア: 単行本
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 上記書籍を参照して要約しました。

 

 

健全なタイプ5

段階1ー先天的に広く予見する人

 最も健全な状態では、タイプ5は、現実の世界を深く見通すと同時に、それを幅広く理解するという、自己矛盾的な能力を持つ。物事を全体として捉え、他者が混乱しか見ないところに一定の様式を読み取ることができる。すでに持っている知識を総合し、時間と空間、DNA分子の構造、あるいは、脳の化学反応と行動との関連というような、今までは誰も関連があるとは考えなかった現象の間を関連づけることができる。 芸術の方面に心が向いていれば、まったく新しい芸術様式を興したり、以前には見られたことのないやり方で形式を大変革するかもしれない。そういった革新によって、他者は学び創作するための新しい土台をしばしば与えられる。
 最も健全なタイプ5は、世界はどのように動くのかということについて、自分自身の考えに執着しない。現実を非常に深く包み込むので、単なる理論付けによっては到達できなかった、予期せぬ真理を発見することができる。現実を観察している間は心を開いていて、答えを知ろうとはしないからこそ、さまざまな発見をする。
 自分の考えを現実に押しつけることはないので、非常に健全なタイプ5は、観察したものすべてについて、 固有の論理、構造、相関様式などを発見することができる。その結果、曖昧な事柄にはっきりした考えを持ち、しばしば人よりもずっと早く出来事を予言することができる。他者は後になってそれが正しかったことがわかる。タイプ5が自分の資質の頂点で機能を働かせているときは、その説明は非常に簡単ではあっても、 予言者や将来像を示す人のように見えるだろう。彼らに先見の明があるのは、並外れた明晰さで世界を見るからであり、それはちょうど、つづれ織りが完成する前に、その模様を知っている織り手のようである。
 その結果、彼らは論理的な思考を超えて客観的な真実を明らかにするが、そうする中で、言葉では表現できない世界に向かい、言葉や理論や象徴などでは及ばない水準の理解へと進む。彼らは、自分自身を超えたところから来るように思える予見力で、複雑さと単純さを併せ持つ世界をすべてありのままに読み取る。彼らは、考える人と言うよりも、観想する人と言う方が近い。これは、仏教やさまざまな霊的な教えの中で言及される「静かな心」の持つ性質である。心が静穏になれば、心は鏡のようになって、向いた先にあるものすべてをその中に収めて映し返す。健全なタイプ5は、現実に対して防衛するために自分の頭を使うことはない。むしろ、現実を受け入れるので、自分が世界から切り離された存在ではないことを理解する。
 非常に健全で資質に恵まれたタイプ5は、現実を完璧に描写するので、その眼力と発見は、誰でも考えつくことができたと思えるほど、単純で、自明のことのようにすら見える。しかし、天才の洞察が自明に見えるのは、後知恵でしかない。既知のことから未知のことへと飛躍したこと、未知の事柄をすでに知られてい る事柄と完全に一致するようにきわめて明瞭かつ正確に描写することは、偉大な成果である。同じように、 誰かが芸術の新しい表現様式を「創り出す」ことができたとしても、他者に対して現実の認識の仕方を変えさせるほどに強烈な影響を及ぼすことは、稀であり、尋常なことではない。
 このように、非常に健全なタイプ5は、知力と創造力に新しい領域を切り開く知的先駆者である。個人としてのタイプ5は、充分な資質に恵まれていれば、人類にとって驚くほどに知的な発展をもたらすような歴史的な天才であってもおかしくない。最高の能力を持つ天才は、歴史上初めて、世界はどのような動き方をするのかを理解するだろう。天才ほどには才能に恵まれない者も、微積分やコンピューターの使い方を初めて理解したときには、天才の興奮感を味わうかもしれない。彼らの理解は、彼らにとって新しいことであり、 わくわくすることであろう。他者は、誰かにとってまったく新しい何かを発見することはどれほど感動的であるか、その発見がその人にとって新しいだけでなく、人類にとって新しいときにはただ想像するし かない。
 しかも、段階1においては、非常に健全なタイプ5の優れた頭脳にはまったく私心がない。自分自身が最も気づいていることは、世界の中でくつろぎ、平和でいると感じていることである。無能で役立たずであるという怖れは超越してしまっているので、知識と技能を執拗に追い求めることからも解放されている。もは や、他者や難題に圧倒されたと感じることはなく、頭と心を結びつけて、自分の知識と才能を人への思いやりを持って使うことができる。

 

段階2ー洞察力の鋭い観察者

 タイプ5はいつもこれほど健全ではないにしても、周囲の世界、その栄華と恐怖、その不調和と尽きることのない複雑さを、驚くほど自覚している。彼らは、すべての性格タイプの中で最も精神的に敏感であり、 あらゆることに好奇心を持つ。健全なタイプ5は、ただ考えることのために考えることを楽しむ。知識を持つこと自分が何かを知っていることを知り、頭の中でそれを熟考し、着想と戯れることができることは、きわめて楽しいことである。知識と理解は自分を活気づけてくれる。人と、自然と、人生と、思考それ自体によって魅了される。
 充分な知性を与えられて、健全なタイプ5は物事の表面を突き抜け、非常に素早く深い段階に到達する。 物事の本質を見抜く超人的な能力を持ち、全体を理解する鍵となる変則なこと、奇妙ではあるがそれまでは知られていない事実や隠れた要素に気づくので、その洞察は異彩を放つ。確かな洞察力を持って世界を見る ので、興味深く、かつ、語るに値する何かを常に持っている。見るという行為は、事実上、彼らの心理的志向の全体を象徴する。もし何かが見える、つまり、五感か頭で悟ることができれば、タイプ5はそれを理解できたこととして感じる。いったん何かを理解すれば、熟達することが可能である。このようにして、タイプ5は望み通りの確信を持って行動することができる。
 健全なタイプ5にとって、目に留まらないものは何もない。なぜなら、彼らは、単に受動的に世界を観察するのではなく、そこに意識を集中し、さまざまなものがどのように集まって様式を形づくり、意味を成すのかに注目するからである。あたかも拡大鏡の焦点を環境に合わせているかのようで、人も物も詳細に読み取られる。頭はきわめて能動的で、周囲のものすべてに興味をそそられるので、健全なタイプ5は決して退屈することがない。知らないことを学び、明らかでないことを理解することを好む。どんなに良く知っていても、いつももっと知りたがる。どう見ても世界は無限の複雑さを持っているから、さらに知るべきことは 常に存在する。
 健全なタイプ5は、また、集中力を持続する能力を持っているので、他者よりも遙かに多くのことを読み 取ることができる。簡単に注意をそらすことはない。精細な吟味の対象がどのように機能するのか、あるものがなぜそのようにあるのかを理解できるように、そこに素早く深く没頭する。彼らは知的好奇心に導かれて、自分の注意を捉えたものについてもっと多くのことを見つけ出すために、少なからぬ労力を費や す。信じがたいほどの勤勉家で、問題が解決するまで、あるいは、解決不可能なことがはっきりするまで、 忍耐強く一つの問題に取り組む。曖昧なことには何年間も取り組もうとするが、それは探究しているものや創り出そうとしているものに興奮しているからである。健全なタイプ5は、他者からの支えや注目がなくても自分の関心事を追求することに慣れているので、他者が無関心であっても、あるいは、理解が得られなくても、思いとどまることはない。探究・学習・創造の過程は、タイプ5にとっては、最終目標を達成すること以上に楽しい。現実に対して疑問を抱き、特に芸術の分野ではほとんどもとの形がわからなくなるようになるまで、見慣れた形をいじくり回すことに喜びを感じる。彼らはまた、非常に優れた概念形成者であり、 当を得た基本的な疑問を提起し、自分が関わることになった問題領域を知的に、かつ、適切に明確にする。 不可能なことを試みようとはしないが、以前に理解していなかったことを理解しようとはする。
 実際の知性がどれほどかはともかく、たいていのタイプ5は、自分自身を「頭が切れ」て洞察力が鋭いと考えており、それが性格を特徴づけていると見ている。大勢のタイプ5は知識人でも学者でもないが、タイ プ5ならば着想、認知、現実の見つめ方といった世界に注意を集中する。彼らはいつも、以前には気づかなかったもの、あるいは、異質な考えや自分が探究してきた活動を結びつける方法を求めて目を配る。それまで取り組んできた何かの疑問や創造性のある問題に新しい洞察を得ると、自信の感覚が生まれ、それがさらに深い探究へと彼らを駆り立てる。
 タイプ5は、他者が自分を「ふつうでない」と見ているらしいことを知っている。これは彼らの知性がしからしめることであり、非常に発達した感覚の鋭敏さ、行為の特異性、そしておそらくは鋭い観察のお蔭である。タイプ5は、タイプ4と違って、「異なっている」ことに関心を向けることはない。むしろ、自分の立場は、肩をすくめて受け止める局外者であると考える。人生には感傷的に向かい合わない傾向があって、この情緒の欠如が自分自身の身の上にも及ぶ。彼らがふつうでないように見えるのは、結果がどうなろうとも、 好奇心と直観に従うことをいとわないからでもある。彼らは社会的な慣習にはあまり関心を持たない。それよりも、自分が本当に関心を持っていることから切り離されてしまうような活動で邪魔をされたくない。
 健全なタイプ5は客観世界で適任で有能であると感じたいのに、物事を調べるという行為そのものが能動的に参加することから彼らを引き離して、局外の観察者という役割に変えてしまうようになる。この段階でも、健全なタイプ5は、自分で気づいていないと、ある程度は環境への不安に引きずられる(そして、もちろん、それに対処するようになるまでは気づくことはないので、難問に引っかかる)。そのため、観察という習慣は、単に冷静な好奇心を反映するものではなく、深いところからの個人の必要を映すものになる。

 

段階3ー的を絞った革新者

 タイプ5がひとたび自分自身を知的で洞察力が鋭いと見なしてしまうと、その鋭い洞察力を失うのではないか、自分の考えていることは不正確なのではないかと怖れるようになる。その結果、自分が最も関心を持っていて、本当にそれに精通しようという目標がある分野にエネルギーを強く集中し始める。そうすることで、タイプ5は、能力や知識体系を伸ばし、それによって世界の中で自分にふさわしい場所を確実に持たせてもらえることを望む。事実や技能をただ獲得することに関心を持つのでなく、自分が学び取ったものを活用することで、すでに探究し終わったものの先に進もうとする。そうすれば、自分の適任さをもっと試すことになるし、他の誰もが考え出せなかった適所を自分で創り出せるかもしれないので、彼らは「限界を押し広げ」たい。
 彼らの探究の成果は、ある時は天才的な発明や驚異的な技術として高度に実用的な結果を生む。いじくり回した結果、驚くべき新発見や芸術作品を生み出すこともある。さらにまた、ゆくゆくは実地に適用できることになるかもしれないが、その着想のままではほとんど何の成果も生まないようなこともある。ある時期には実際的でないことが、別の時期にはまったく新しい知識や技術の分脈の基礎となることも、しばしばである。物理学がテレビやレーダーを可能にしたことや、着想の断片が集まって小説や映画が生まれるなどは、その一例である。
 健全なタイプ5は探究し精通するべき新しい分野を探し求めるので、一般に偏見を持たない。特別な視点に執着しないし、他者が物事について何を考えているのかを知ろうと好奇心いっぱいである。他者の見方には何かしら学ぶべきことがあるものだと、だいたいどんなときでも信じている。彼らはまた、自分の考えが非常に込み入っていたり、他者が理解するのに時間がかかるときでも、非常に辛抱強くその考え方を他者に説明する。健全なタイプ5は、話を通じ合いたいし、他者には自分の言っていることを理解してもらいたい。
 物事を非常に大局的に理解するので、その深い知識が難問の真髄に迫ることを可能にさせ、他者に問題や可能な解決策を明確に説明することができる。健全なタイプ5は、誰かと自分の考えについて議論することで自分も理解を深めることが多いので、自分の知識を分かち合うのが好きである。健全なタイプ5が人をわくわくさせるような教師、仲間、友人になるのは、これが理由である。着想について彼らが抱く情熱は人に移りやすく、他の知識人、芸術家、思索者、そして、実質的に自分と同じように興味津々で、好奇心が強く知的な人なら誰とでも、その人たちの専門知識で自分自身の専門分野を豊かにすることを楽しむ。
 健全なタイプ5は、彼らの洞察を理解し評価できる人たちと一緒にいることを好むが、それでいてきわめて自立的である。だいたいにおいて、刷新、学習、創造は、単独で行なうことが最も適した、孤独の冒険である。自分の研究課題や発見がどこに通じることになるかが決してわからないため、タイプ5は自分の自立性を非常に大切にする。自分の探究が因習的でないことが必要なように、自分も因習には従っていたくない。 他者や社会の支持があろうがなかろうが、自分の興味と発見を追い求める。必要とあれば、既成の教義に挑戦することも怖れない。
 彼らの新考案は革命的であり、それまでの思考方法を覆す。その興味の特質と知性の広がりのお蔭で、健全なタイプ5は、文字通り歴史の流れを変えるような強力な着想を私たちに与える。美術、舞踊、映画、音楽などの世界はタイプ5の奇妙な創作によって、何度も「憤慨させられ」てきたが、後になって、それらは「物事のありよう」の標準として広く受け入れられている。
 健全なタイプ5はまた、奇抜なユーモアの感覚を持っている。人生では、不条理や皮肉に数多く出会うが、彼らはそれに調子を合わせ、自分の皮肉たっぷりな観察を他者と分かち合って楽しむ。現実像を歪めることによって、論理的な根拠はまったくない人生の見方や仮定を充分に強調する道を心得ている。奇妙で型破りな題材に魅了され、実在物、イメージ、言語などをいじくり回すのがとても好きである。健全なタイプ5でも、そのユーモアはタブーを吹き飛ばす性質を持つが、それは、他者ならば排斥したり退けたりするような題材でも熟視することに惹かれるからである。彼らの想像力は強力であり、それを使って問題の解決策を視覚化したり、仮想現実を生み出したりする。これこそ、多くの芸術的なタイプ5が映画製作者、風刺漫画家、 フィクション分野(サイエンス・フィクション、ホラー小説、ブラック・ユーモア)での作家になる理由である。その審美観は両極端に走る傾向がある。一方はミニマリストや散文家であり、他方はシュールレアリストや空想作家である。芸術に携わるタイプ5は大部分が、単純な「人情話」や物語には興味を持たない。彼らは、 日常の関心事を超えてより絶対的な真実、特に「ふつうの世の中」では隠れている真実へと観客の注意を向けさせたい。
 彼らに興味を抱かせる分野に精通する過程で、健全なタイプ5は知識を蓄積する。この性格タイプの人は、 さまざまな専門分野で専門性を発揮する。それは、芸術(たとえば、象徴表現主義絵画、電子音楽、エジプト象形文字学など)であっても、科学(コンピューターの作り方、宇宙への衛星打ち上げ)であってもよい。健全なタ イプ5は、博識なのがふつうで、さまざまな主題について広範な知識を持っており、そのすべてにおいて専門家である。自分が語っていることを知っていて、自分の知識を他者と分かち合い、その学識で社会全体を豊かにする。自分の洞察によって物事を積極的に行なうので、かなり自信を持ってもいる。その理由は正確には、洞察が非常に的を射ているので、健全なタイプ5当人もその着想も周囲の世界にとって特に価値があるからである。私たちにコンピューターや抗生物質がなかったら、洗練されたコミュニケーション媒体や現代世界を形成しているあらゆる種類の技術革新がなかったら、私たちはどうなっているだろうか?

 

通常のタイプ5

段階4ー学究的な専門家

 通常のタイプ5と健全なタイプ5の本質的な違いは、通常のタイプ5は、行動できるほどには知っていな いとか、世の中でしかるべき地位を占めていないと怖れるようになることにある。彼らは、もっと研究し、もっと練習し、さらに技術を習得したり実験を続けたりし、主題にもっと深く没頭したりする必要があると感じる(知れば知るほど、自分が知らないことに気づく)。その理由がどうであれ、自分の概念や着想を実行に移すことはできないのではないかと怖れる。自分の身を危険に曝すだけの準備は充分にできていないと確信するので、自分の経験した領域、自分の頭に引き下がる。そこならばもっと自信があり、統御できると感じる。どの性格タイプも自分の最大の強みから行動するが、知性はタイプ5に与えられた賜物であり、 成長の中で自ら身につけたものである。しかし、通常のタイプ5は、刷新とか探究などはせずに、概念化と 準備を始める。一言で言えば、健全なタイプ5は知識を活用するのに対し、通常のタイプ5は知識を追い求める。
 タイプ5は、概念と自分の想像力をいじくり回すことに熟達するので、「自分の頭の中」にいれば自分自身に自信を持っていられる。また、この段階から下に行くと、世界との直接の接触をさらに避けるようになる。問題とか歌のアイデアなどを概念化することには何時間もかけていられるが、その着想を現実に具体的な形にすることをためらう。通常のタイプ5は「準備状態」にとどまったままで、際限なく研究し、さらに参考資料を収集し、練習する。あるいは、書物や発明の着想を想像の中で発展させるだけで、それを決して現実化させようとしない。「もう少し時間が必要だ」と、通常のタイプ5は繰り返す。しかし、理由なしに渋っているのではない。彼らの躊躇は、世界にうまく対処する自分の能力への自信が失われていっていることを隠すことに他ならない。
 通常のタイプ5は、他者ほどには人生への準備が整っていない存在として自分自身を体験するようになっているので、「自分自身をつくり上げる」のに必要であると自分が信じているものなら、どんな情報、技能、手段・方法でも、無理にでも集めなければならないと感じる。そのため、タイプ5は、社会的な活動から外れ、そういった手段・方法を獲得するために、さらに多くの時間とエネルギーを費やす。彼らの家はその頭の反映物となり、書籍、録音テープ、録画ビデオ、CD、それらの装置類などの保管場所のようになる。
 通常のタイプ5は典型的な本の虫である。彼らは書店に、図書館に、そして、政治、映画、文学などについて議論するインテリ向けに夜遅くまで店を開けているコーヒー店によく足を運ぶ。学問を愛し、知識を獲得できる機械装置などに興味をそそられる。しかも、中世の写本であれコンピューター設備であれ、自分の知的興味の追求のために必要な道具は何でも手に入れるためにお金を使う一方で、自分自身や自分の快適さに対してはお金を使いたがらない。なぜなら、彼らが我が身と思うのは、自分の肉体ではなく、自分の頭と想像力だからである。
 専門的な技能・知識を追求する中で、通常のタイプ5は、ほとんどの人に知られていない知識体系を深く掘り下げ、何かの分野で高度な専門家になる傾向がある(その道のスペシャリストとして、実質上「あなたの知らないことを知っている」と言える自分の能力に誇りと喜びを持つ)。遺伝子構造、雪片生成の計算法、アマゾン川デルタ地帯での野鳥の渡りの型といった純学問分野で、専門家になる人がいる。あるいは、それほど学問とし、骨董品、切手収集、コミック本、ジャズなどの専門家になる人もいる。彼らの収集方法は、彼らが人生全体に取り組む態度を暗示する。つまり、より多くの材料を集め、自分が知っている、 あるいは、できると信じるものの中心部にそれを組み入れる。

 収集に当たっての好みは、思いもかけない事柄で専門化したいという彼らの欲求に反映する。ホラーものの録画ビデオ・テープとか、1950年から1990年にかけてのサイエンス・フィクション映画の完璧な収集もちろん監督別に系統立ててをするかもしれない。収集の完璧さと内容の包括性が大切になる。通常のタイプ5は、ビートルズのアルバムが数冊しかなかったり、ベートーヴェンの交響曲がたった三曲であったりすれば、無意味であると感じるだろう。彼らは、ビートルズなら、数少ない海賊版も含めて、全曲カタログを手にしたいし、ベートーヴェンの交響曲なら、たくさんの交響楽団ごとに全九曲を収集したい。 ビートルズの音楽が年代を重ねるごとにどう進歩したか調べたり、ベートーヴェンの第三交響曲を各録音ごとに比較対照することなどは、タイプ5にとって楽しい研究であり、それを通じてかなりの知識が得られることは確実である。しかし、こういった努力に時間を費やすことにどれほどの利益があるのか、タイプ5がいぶかったとしてもおかしくはない。こういった狭い範囲の興味に精通しても、少なくとも一時的には有能という感覚を得ることはできるが、本当に自信をつける助けになる活動は避けるようになっていく。
 通常のタイプ5は、もっと完全に自分の頭と一体化するようになっており、そのことはまったく問題にはならないことであっても、影響のないことではない。これまで見てきたように、健全なタイプ5は環境を実によく見ていて、周囲の世界に同調しているが、通常のタイプ5は次第に人生に頭だけで取り組むようになっていくので、いろいろなことに失敗するようになる。一定部分については細部にまで焦点を当てても、関連情報は完全に見落とすことがある。自分の関心分野については、歴史であれ、言語学であれ、ステレオ装置であれ、ジョギング・シューズであれ、類人猿の家族社会であれ、知識体系を組み上げる傾向がある。現実から抽象化に進み、現実の中でも自分の注目を集める局面にだけ関わろうとする傾向が見え出すのは、ここからである。不健全という意味合いで言えば、彼らはまだ現実との接触を決して失ってはいない。しかし、自分の興味をもっと深くまで追求できるように、知覚の焦点を狭めるようになっている。
 自分では気づいていないとしても、通常のタイプ5は新しい体験に出会うと、それを分析し、すでに知っていることとの関連で背景を理解しようとするようになる。恥ずかしがり屋なので、人が踊っているのを見てダンスを覚えようとしたり、いろいろなステップや動きを分析し、記憶しようとする。最も簡単にダンスを覚える方法は輪の中に飛び込んで身体を動かすことなのに、通常のタイプ5は、頭の中でそれが全部できた状態にならないと、怖ろしくて踊りに加わることができない。だいたいにおいて、タイプ5が「よしわかった」と言うときには、ダンスは終わっている。これは学習という点では厄介なことであるが、ある程度肯定的な側面もある。彼らの学習方法は非常に系統立っており、自分が携わっていることなら、どんな過程でもその一つひとつを観察して記憶しているので、自分がどのようにしてその結論に到達したのか、あるいは、 特定の成果を上げたのかを、他者に説明することができる。段階4では、タイプ5は喜んで自分の専門知識を他者と分かち合う。彼らは熱心かつ詳細に、自分が研究してきた課題について話をする。不幸なことに、 タイプ5にとっては、そういったことでなければ、多く話すことは気持ちのいいことではない。個人としての生き方、希望と欲求と失望、そして特に感情は私的な事柄になっていて、それを他者と分かち合うのは気が進まない。他者とは、自分が関心のある主題について議論する方がいいし、知的な対話を通してより深い 「真理」に到達したい。

 

段階5ー一心不乱な概念形成者

 通常のタイプ5が一見安全な頭の中に引き下がると、皮肉なことに、自分の能力に対する不安感が高まるようになる。結局は、狭まっていく関心分野以外のところに割く時間がどんどん少なくなっていき、新しい活動をさらにしようとしなくなる。頭は高速ギヤに切り替わり、身についた能力や金銭力を使って、自信と力がある感覚を得なければならない。それが得られれば、人生を前に歩んでいくようになれると感じる。不幸なことに、通常のタイプ5は、このエネルギーの使い途をしばしば誤って、他者の目には些末なものとしか映らないことにはまり込み、人生で本当の助けになる活動への展望を失っていく。時間は際限なく使って自分の企画したものに没頭するが、結末に至ることはできない。なぜなら、自分自身や自分の着想への自信はどんどんなくなっているし、知的な複合概念がもたらす安全を置き去りにすることが怖いからである。

 その結果、タイプ5は、自分の中には余分な能力は残っていないと感じる。他者や他者の感情面での必要によって自分は圧倒されるのではないか、少なくとも企画の本筋からそらされるのではないかと怖れる。タイプ5が信じるのは、すべてが自分の獲得する技能や能力にかかっていて、それがあれば、慈悲も哀れみもないと思えるようになっている世の中で生き残る機会が得られるということである。彼らは心の底から他者と繋がっていたいと思うが、自信の感覚と求めている専門性とを身につけなければ、それは不可能であると感じる。通常のタイプ5は、社会的な交流のほとんどは自分の時間と空間を邪魔するものであると見なすよ うになる、その時間と空間は専門性探究のために使わなければならないと信じている。こういった予想される「侵入」から自分の身を守るために、頭の焦点と活動を絞り込むことで、自分自身の内面世界にさらに深く引きこもる。より健全な段階にいるときでも仮想現実を創り出すようになれば、段階5に住みつき始めたということである。通常のタイプ5は、仮想現実を探究することで得ようとしていると自分が信じているものすべてから引き離されるようなことは、誰にもどんなものにもさせたくない。
 しかし、奇妙なことに、通常のタイプ5は、「自分自身」を悩ませ始める。自分のエネルギーが全部、建設的な企画に注がれれば、彼らがすることはもっと他者に理解されるであろうのに、不安感が募っていくこと から、自信や有能の感覚を一時的に与えてくれるような活動に没頭して時間を過ごすようになる。自分の頭の中では、有能で、自分の状況を完全に統御していると感じることができても、現実の世界では自分は無力で無能である、という怖れを埋め合わせ始めている。
 彼らは複雑で知的な謎、迷宮のような仕組み念入りにつくられていて踏み込めない迷路であり、世界に知的に対処している間、そのお蔭で自分自身を切り離していられるものに飛び込む。彼らは、きわめて詳細で複雑な思考様式に夢中になり、不可解な理論に没頭する。そうした理論は、天文学、数学、哲学といった伝統的で純学問的で深遠な研究領域を扱わなければならないものであろうと、カバラ、占星術、神秘学といった秘教的原理を扱ったりするものであろうと、どちらでもかまわない。知的なゲーム(チェス、「ダンジョンズ&ドラゴンズ」のようなコンピューター・シミュレーション・ゲーム)に止めどなく夢中になり、学問の領域をある種のゲームに、ゲームを学問の領域にしてしまう。彼らはしばしば、フィクション、特にサイエンス・ フィクションやホラー物の分野に強い親近感を抱く。暗く奇怪な想像の世界を探究することは、何かに精通したという感覚想像の中でのイメージでしかなくてもをタイプ5に与える。奇妙で平静を乱すような主題への興味は、他者から文句をつけられることのない「自分の庭」を調べることであり、無力感への対抗恐怖的な反応でもある。

 通常のタイプ5の思考は次第に無検閲状態になる。どれほど怖ろしい思考でも、受け入れがたい思考であっても、他者の目にはタブーに見える思考でも、「いかなる」思考も進んで受け入れる。タイプ5は真理を探究するし、その真理が不愉快なものであったり、既存の慣習を覆すものであっても、それはそれでかまわない。健全なタイプ5では、この傾向は賞讃に値するし、偉大な発見の源でもある。しかし、通常のタイプ5では問題を生むようになる。彼らは能動的には世界に関与していないので、「現実点検」はあまり受けていない。その結果、探究する主題が潜在的に不安定であることから、世界と自分自身に対する不安感に油を注ぐことになる。

 こういった怖れのため、また、想像力が働いて、ほとんどあらゆるものに不吉な含意を読み取るため、通常のタイプ5は文字通り力に魅了される。知識は力であると感じ、知識を持てば他者以上に良くものが見えるから安全である。そうすれば自分自身を守れるではないかと感じる。自然とか政治とか人間行動など、何らかの力を扱う分野の研究に引きつけられる。しかし、タイプ5は力に対して両価的でもあり、自分に力を及ぼす人たちに警戒心を抱きもする。力を持つ者は誰でも自分に対してその力を使い、自分を完全に無力にさせると感じる。無力さは自分の最も深い怖れの一つである。

 通常のタイプ5が自分の独立を保持し、他者に支配される可能性を避けるための方法の一つは、さらに無口になることである。彼らは次第に自分の個人生活や感情の動きについて語ろうとしなくなる。そんなことをすれば、他者に自分を支配する力を与えることになるだろうと怖れる。それに加えて、そういったことを話すことは、自分自身の怖れと傷つきやすさをもっと直接に体験すること通常のタイプ5が疑いもなく 避けたがる事態に自分を追い込みかねない。いずれにしても、タイプ5は、あからさまな手管を使うのではないが、自分自身についての情報をあまり与えないようにして、自分に近づかないように他者を統御するようになる。素っ気なくしたり、謎めいてみたり、まったく口を閉ざしたりする。人との関係や生活の局面をさまざまに細分化して、人が近づくのを制限したりもする。ある友人には職業生活を語り、他の友人は昆虫に魅力を抱いていることを教えられる。恋愛物語を知っている友人がいれば、夜遅くどこに行くのが好きかを知っている友人もいる。しかし、誰一人タイプ5の全体像を知る者はなく、そういった友人たちが一堂に会して「情報を交換し合う」ことはないと通常のタイプ5は可能な限り確信していたい。

 この状況は友人が多すぎると保つことがむずかしいが、簡潔な生き方をし、私的なことにより多くの時間を割けるようにするために、自分の必要を切り詰めるようになる。これは、この段階では生活のどの局面ででも彼らがすることであるが、人との関係でもそれをする。通常のタイプ5は自分の企画を追い続ける決心を固めていて、その邪魔になるようなことには巻き込まれたくないし、関係を持ちたくもない。衣食住、活動範囲、人間関係などを「削減する」ようになる。自分の独立と関心事を追い続ける自由を危うくするものは、いかなるものでも保持するに値しない。この段階では、頭の世界に執着し切っているので、生活の基礎的な快適さとか生活を楽にするものなどは、ほとんど問題にされない。まるでスパルタ人のように質実剛健で、生きるに最小限度のものしか持たず、他者があまり自分に求めないようにするために、他者に求めることも減らす。自分の能力よりも遙かに下のところで職に就くこともしばしばであるが、それは、より挑戦的な仕事を求めることで、面倒に巻き込まれたくないからである。皮肉なことに、彼らは自分の人生を生きる準備をすることに時間を充てるために、自分の人生を生きることを避ける。彼らの生きる目的は、大脳が決め込んでいるものから得られる喜びであり、ささやかな勝利である。

 問題になるのは、通常のタイプ5は、一貫性を持って世界を観察することを止め、自分の着想と想像に注意を集中してしまっていることである。ここは、彼らの発達段階での転回点である。この段階では、 客観世界を探究するのではなく、世界に対する自分自身の解釈に夢中になっており、その着想にますます深くのめり込むことによって、環境だけでなく、自分自身の感情の働きからも自らを引き離すことに、その頭が働いている。健全なタイプ5なら人並み以上に洞察力があり、環境も承知している。通常のタイプ5は、 自分の思考にはまり込んでいる度合いが深ければ深いほど、自分の周囲の世界には気づかなくなる。
 タイプ5が思索に落ち、理論化を始めると、着想は頭の中で堂々めぐりを始め、あらゆる角度からそれを検討し、止めどなく新しい解釈を生み出していくので、木を見て森を見なくなる。いくら新しい憶説が生ま れても、思索はこれが最後という確信が持てない。どれがいいとも決めかね、それぞれに可能性がある。たとえば、ものを書けば書くほど、説明は複雑になって、最後には実質上理解不可能になる。才能は素晴らしいかもしれないが、結論に到達することができないので、通常のタイプ5にとっては着想を公表することは容易ではない。

 その上、どんなことを考えても、そのほとんどに対してありそうな事例を用意できるため、タイプ5にはあらゆる着想が同じようにもっともらしく思える。考えられることすべてが可能性があるように、また、本当のように思える。恐ろしいものでも奇怪なものでも、新しい考えを頭と感情で楽しむ力を持っている。それは、新しい可能性を熟考すること以外に、彼らのすることは実質上ないからである。しかし、その着想は外の世界と直接の繋がりを持たなくなる(認識論の問題が彼らの興味をそそるだけでなく、通常のタイプ5はその問題を無頓着に実践する)。しかし、彼らの着想と現実とを確実に結びつけることは、通常のタイプ5にとって、思考の中心的な機能ではもうなくなっている。その代わり、思索と想像が頭を活性化させ続けて、自己感覚を支える。

 さらに、すべての時間を考えることに使っている上に、思考過程が非常に複雑で互いに絡み合っているので、この段階での通常のタイプ5は他者にはっきりとした意思伝達をしない。彼らはあまりにも細部に入り込む。思考は高度に濃縮される。意識の流れは入り組んだ独白劇となって流れ出し、他者が彼らの思考の脈絡を追うのをむずかしくさせる。突然脇道にそれ、論理に余分な段階を介入させずに点から点へと飛躍 する。ジャクソン・ポロックの絵画技術について鋭い観察を披瀝したかと思うと、現代マスメディアと環境内での高濃度な化学物質が生物界に与える害毒に関して論を吐く。彼らの独白劇は魅力的かもしれないし、 彼らの知的領域の中でならあっと言わせる可能性もある。しかし、彼らの論についていくために頭を働かせるとへとへとになるので、話は風変わりで退屈になるかもしれない。あるいは、そうやってついていくことに努力する価値があるかどうか、必ずしもはっきりしない。しかし、通常のタイプ5は、自分が言わなければならないことはすべて、自分自身にとっておもしろいことなのだから、他者にもおもしろいはずであると考える。
 彼らは肉体を離れた精神として機能するようになる。なぜなら、彼らに関する限り、肉体は精神にとって乗り物にしかすぎないからである。この段階では、思考の妨げになるとき以外は、自分の身体の調子にはあまり注意を払わない。自分の研究課題に深く没頭しているので、食べたり、眠ったり、服を着替えたりするのを忘れる。彼らはしばしば、シャツを着てもボタンをかけ忘れ、靴を履いても紐を結び忘れるような、ことわざに出て来る上の空の教授のように見える。そんなことはどうでもいい。彼らにとってそんな考慮は意味がない。頭が働くこと、関心事を探究する興奮こそ価値がある。

 善きにつけ悪しきにつけ、ひどく張りつめていて、その神経系は、他の性格タイプの人たちより高い調子に調律されているかのようである(タイプ9も、通常の段階では思索的で想像力が豊かであるが、その作用はまったく異なる。タイプ9は落ち着いて受け身になるが、タイプ5は興奮して一心不乱になる)。タイプ5には、心中にほとばしり出る無意識の衝動を抑制する能力が欠けているように見える。その衝動が湧き出ると、夢中になっている認知、研究、他者との関係は火に油が注がれたようになる。物事をいい加減にやるのはむずかしく、他者との親密な関係は特に荷が重いことがわかっている。

 通常のタイプ5は、自分の世界に引き下がれば引き下がるほど、ほとんど誰に対してもますます両価的になる他者に引きつけられながら、しかもその人たちに警戒心を抱く。他者が持つ知的関心の対象を分析するだけでなく、どんな動機が他者を動かすのかを知りたがる(「今あなたがおっしゃったことには感じ入りました 信じられないほど男の人に怒っていらっしゃるのですね。そうでしょう?」。しかも彼らは、他者と深く関わることを避けようとするのがふつうである。なぜなら、人というものは予測できないものであり、おそらくは要求がましいものだからである。通常のタイプ5は、何か狙いがあるはずだと信じる。誰かが自分に個人的な関心を抱くとは想像することができず、自分には与えられそうもない何かを自分に期待しているのではないかと怖れる。それ以上に、感情に巻き込まれれば、自分には統御するのがむずかしい強い感情が起き て来ることを通常のタイプ5は知っている。強い感情はすぐ頭の中を洪水のようにいっぱいにしてしまう。 しかし、たいていのタイプ5は強い性的衝動も持っているので、人との関わりをまったく避けることはでき ないし、一方で強く関わってもいたい。そのため、他者や人間関係は限りなく魅力的であると知りつつも、 警戒心は解けないでいる。

 したがって、通常のタイプ5の中には、結婚していなかったり、他者と激しい関係になる人が非常に多い。 他者と親密な関係になることは、それに巻き込まれ、もつれさせられ、消耗させられるので、他者と近づきになろうとすることは止めて、世間から離れ、仕事や考えにさらに完全に打ち込んでいく。そうすることは無力感に油を注ぐことだけにしかならないのに、前にもまして孤独になるにつれて、自分自身と世界に対する怖れは強まる一方で、その餌食になっていく。現実に対する見方はかってないほどにわびしく、おぼつかなくなる。慈愛溢れる「神」はもちろん、恵み豊かな宇宙という考え方は到底受け入れがたい。加えて、悪の問題が大きな嘆きとなる。世界の恐ろしさと不確実さは、タイプ5にとってはあまりにも明白なので、世界をそのような状態にしておくことを許している「神」は、それがいかなる神であろうとも、加虐的で、邪悪な神であり、関わりになることを拒絶する神であるにちがいない、としか考えられない。

 

段階6ー挑発的な皮肉屋

 タイプ5は頭の中を複雑化させたので、早晩、新しく、さらに厄介な問題を引き起こす。明白なもの、確かなものは何もない。不安が増大する。自分が展開しようとしている企画や着想が何であれ、かつてないほど死に物狂いになっているのに、自分の準備が整わないうちにその探究を放棄するように他者から要求され るのではないかと怖れる。人生に邪魔が入って、「正しい方向から無理矢理引き離される」のではないかと怖れ、自分の壊れやすい地位に対して脅威と思われるものはどんなものであれ、絶対に防ごうと決心する。段階6では、話し方、服装、関わっているテーマなどを通して、タイプ5は世界に向かって「自分をほっといてくれ!」と言っている。他者がその伝言を受け取れなくても、その努力は攻撃的なので、他者は怖れて逃げてしまう。

 この段階でのタイプ5は、見かけ上は知性に勝って傲慢に見えるかもしれないが、実際には自分自身にあまり確信を持っていない。自分が最も大切にしている着想や企画も、空しいものに思えるようになっていて、強引に守ろうとするのか、価値がないと認めてしまうかで、行きつ戻りつする。彼らは、あたかも自分にとって無意味になりつつある着想からもっと自信を引き出そうとでもしているかのように、さらに極端 で、しかも異端の立場を取るようになる。過激な見方を表明はしても、必ずしもそれを確信しているのではなく、それでも確信していると表明することはして、裁断用具のようにそれを振り回す。しかも、潜在意識には環境に対処できないという怖れがあって、それが頭の中にたびたび噴き出して来るので、世界や他者に対する恐怖を増大させながら生きることになる。ほとんどあらゆることに不確かさと不安を感じて、他者が満足しているように見えたり、自分が気づいている恐怖を他者は気にも留めていないように見えることが、また腹立ちの種になる。その結果、自分の挑発的な見方を「分け与える」ことで、他者が持つ確かな見込みや満足を覆そうとする(「そうか、浜に行こうというのか? 僕はオゾン層についての最新の報告を読んでいたとこ ろなんだ。研究の結果だと、皮膚ガンになる危険はほぼ百パーセントになるっていうことだよ」)。この段階でタ イプ5が言うことの中には、真実が含まれている場合が多いが、彼らの意図はもう真実に到達することには ない。彼らの意図は、他者を不安にさせるように自分の知識を用いることにある。しかも、情報を集めるた めにたくさんの時間を使ったので、世界はすっかりだめになったという自分の確信を強めるためにも、安全に対する他者の感覚を覆すためにも、その情報を気楽に利用することができる。

 ある種の過激主義は、頭の使い方だけでなく、人づきあいの仕方にも特徴的である。政治や芸術の面では、 敵対的なタイプ5はいつも急進派で、前衛派の地位を占める。彼らは、さまざまな考えを最大限度まで利用するのが好きである。すなわち、その衝撃価値に便乗して、伝統的に考えられ、行なわれてきたことに公然と反抗したり、世論に穴を開け、粉砕したりする(そして、タイプ5が自分で思っているほどには正しくないとしても、彼らの挑発的な着想は、他者に実質上自分に対応することを余儀なくさせ、議論を巻き起こさせるばかりか、敵意までも駆り立てる)。彼らは、徹底した社会規範への反抗者、反対者として、あらゆる社会的慣習、約束事、そして、期待に反抗する。その範囲は、女権拡張運動、政治、子女養育、性の解放から、そういったものが奇妙に結びついたものまで、多岐にわたる。彼らは胸に一物ある人物である。理解力は放棄されて、論争術になってしまっている。

 段階6では、自分の生き方の全体を考え方の表現手段として、また、世界への非難として利用する。極端なほど生きるにぎりぎりの生活を選んで、「寝返り」を避けようとするかもしれない。この段階では、「寝返り」とは、何か定職に就くことであり、人との関係を持つことであることもある。わざと挑発的な服装をしてみたり、不服従主義者ばりのやり方で身繕いをしたりすることもある。もちろん、社会への異議申し立ては、どの文化においても重要で健全な刺激であり得るし、より健全なタイプ5(他のタイプでもそうであるが) は、自分の主張の正しさを力説するために挑発的な言辞や芸術、さらには、服装スタイルを利用したりする。 しかし、通常でも低い段階でのタイプ5にとっては、何をしても無駄というのが核心である。人生は空しい。大衆は愚かである。我が人生は無意味である。他のタイプもその中に含まれるのは確かであるが、この態度は20世紀後半に生まれて発展した「もう一つの」文化の多くに共通する。グランジ、サイバーパン ク、ヘヴィーメタルをはじめとする若者のサブカルチャーはこの心的態度を受け入れたものである。

 皮肉なことに、複雑な思考に耽る癖が大いにある人たちの目から見ると、この段階のタイプ5は、より還元主義的で、現実を単純化しすぎ、物事を前向きに解釈することや別の解釈をすることを退けるようになっている。たとえば、還元主義的なタイプ5は、花を引き抜いた後で、色鮮やかに開いた花は泥が意味ある状態に変容したものに「しかすぎない」とでも言うように、それが生えていた沼地に注目する。絵を描く ことは、糞便をこすりつけたいという欲求以外の何ものでもない。神は、宇宙に投影された父親像でしかな く、人間は生物学的機械でしかない。すべて、こういった具合である。その結果、彼らの考えは、筋道の立った洞察と極端な解釈が入り混じったものになり、一方でタイプ5自身も、どちらがどちらかの見分けをつける途がないことになる。

 一つの不合理な要素現実に対する一種の片意地な抵抗が彼らの思考作用を汚染するようになって いる。段階6でのタイプ5は、その考えが風変わりで極端に不正常であっても、狂気ではない。しかし、健全な独創性は、ごまかしの多い異常性に堕落してしまっている。天才は、つむじ曲がりとほとんど変わらな くなっている(自分の好きなテレビ番組に登場する人たちの名前の中に、深遠な謎が数字コードとして隠されているとか、論理的思考はすべて無意味であるなどと言い張ったりするかもしれない)。他者は突飛な考えをおもしろがっていてもいいが、通常の段階でも低いところにいるタイプ5はそれを強調し、ときには、自分の考えを「証明する」ためにすべての時間とエネルギーを使ったりする。極端な考えは自己感覚の一部になり切っているので、どんな犠牲を払ってでも自分の考えを守ろうとし、そのことを強烈に主張してすべての反論を粉砕しようとする。論争好きで喧嘩っ早くなっていて、自分が知的上位を確保して自分の着想を守ることに懸念を抱き、誰かが自分の輝かしい理論の一部でも盗用したと考えようものなら、訴訟を起こすと言って脅す。

 それでも、着想だけでなく、自分自身も過激なほどに極端で還元主義的になっている通常のタイプ5は、 必ずしも完全に見当違いをしてはいない。彼らはあまりに知性が勝っていて、何か関心を引くことを言わないではいられないのがふつうである。問題は、彼らの考えのうち、どれに価値があり、どれに価値がないのかを見分けることである。そうなってしまうのは、タイプ5は、意識のもっと下の方で、自分の着想や企画のすべてについて冷笑的で絶望的になっているからである。強烈な悲観論が知らず知らずのうちに思考の中に入り込み、あらゆる視点がどれも的外れだと考えるようになる。彼らがどんな観点についても議論できるのは、どれもが同じように正しかったり、どれもが同じように正しくなかったりで、であるからこそどれにも価値がないからである。段階6でのタイプ5は、自分と対立すると思う観点について議論するのを楽しみさえするかもしれないが、それはただ、自分の知性を再び主張する一方で、それ以上の努力をするのは無駄であることを同時に証明するためである。
 段階6でのタイプ5は、外見では、自分の企画に没頭し切っているように見えるが、よくよく見ると、あ まり本質的ではないことに時間の多くを使っていることがわかる。彼らには、身上書をまとめたり、勘定は責任を持って引き受けたり、仕事の計画を完全にやり遂げることは、する必要があることかもしれないが、アリに関する書物を読んだり、集めたレコードの詳細なデータベースをコンピューターでつくったり、チェスが上達する戦略を研究することには、精力を集中する。自分の状況を改善するにはあまり役立ちそうもなく、実際には害になるような活動に、さらに多くの時間をかけていく。そういったことが害になるのは、本当にする必要のあることからタイプ5の関心をそらさせるからである。自分自身に自信が持てないので、いろいろの活動特に自分の生活の質を良くする活動に従事することがまったくできないと感じ、自分 の生活を「統御できている」と一時的に感じさせてくれる状況に引きつけられたままになる。通常のタイプ5は、就職面接に臨んだり自動車の運転を習うことはできないかもしれないが、想像の世界で、世界を征服し、核の絶滅から生き残り、恐ろしいオカルトの力を振るうことはできる。
 この段階では、タイプ5は、自分が明らかに無力であることで不安定さと不安を強く感じる。そこにいると、現実は暗く敵意に満ちているように思える。世界の中で独力で自分の居場所を見つけられようとは、とてもではないが思えない。そして事実、彼らの行為にはとげとげしさがあるので、その可能性を現実化させている。世界との結びつきをもっと感じさせてくれることで、自分にできることを何か見つけようと必死であるが、怖れと怒りがどんどん他者との接触から彼らを引き離していく。自分の気分と満ち溢れる想像で痛めつけられる。不眠症は珍しいことではない。他者に接触しようと努力し、自分自身の苦しみを認めることができれば、問題を好転させて人生を立て直せるだろう。しかし、世界から顔をそむけ続けるなら、結局は自分の人生にわずかながら残っている繋がりを断ち切って、もっと恐怖に満ちた闇の中に沈み込むだろう。

 

不健全なタイプ5

段階7ー孤立した虚無主義者

 他者との間に安全な距離を保ち、卓越性を血迷わんばかりに追求することの邪魔をさせないことが必要なので、タイプ5は、自分の世界を脅かすと信じる人なら誰に対しても、極端なほどに敵意を持つようになる。不幸なことに、不健全になればなるほど、自己不信が大きくなって、ほとんどあらゆるものに脅かされる。自分が安全でいられる唯一の方法は、他者との繋がりを断ち切って「独力で物事をする」ことのように思える。絶望的なほど人生に適応できないと感じ、世の中にまったくうんざりする。不健全なタイプ5は、世の中に自分自身の居場所を見つけることは絶対にしないと確信していて、そのために世の中に背を向ける。極端に孤立し、増大する異常性と虚無主義的な絶望の餌食になる。

 他者が自分の考えに疑問を持つともっと悪い場合、自分の考えが馬鹿にされたり、退けられたりすると攻撃が呼び覚まされる。自分の着想と完全に融合することでわずかに残った自信を維持するために、不健全なタイプ5は攻撃態勢を取る。人は疑いをかけられなければならず、他者の考えは価値のないことが示されなければならず、他者の問題解決策は幻想で、その世界は愚者の楽園でなければならない。こうして不健全なタイプ5は不注意に他者を刺激して自分を退けさせ、その上に、あらゆる人間関係の価値を軽蔑するようになる。しかし、そうする中で、他者からまったく締め出され、誰かと関われる可能性がまったくないとして、極端に絶望的になる。

 実際、他者が信じることを拒絶する必要が非常に強いので、世の中で肯定的であるとされているものはどんなものでも、その正体を暴くことに喜びを見出し、人間関係が実際には成就不可能なこと、人間性の核心は完全に腐っていることを証明しようとする。不健全なタイプ5は、自分が目にしたことはブルジョアの幻想であるとして価値を低めて大喜びする。他者はその幻想によって人生を快適に過ごすし、彼らの方は自分の知性にずっと誠実なので、幻想の虜にはならなかった、というわけである。
 例によって、半面の真理がここに働いている。他者を見れば、自分自身の幸福のために非常に快適ならいいとして生きている人、自己欺瞞的な人、偽善や嫉妬や権力闘争で汚れ切った家族や人間関係など、さまざまであろうが、皮肉癖が最上の対応であるということには必ずしもならない。不健全なタイプ5は大切なものを無用なものと一緒に捨てる。信頼、希望、愛情、親切心、友情、これらはみな、他者と関わりを持つことを怖れるため、彼らにとって信じることは並外れてむずかしい。この段階では、他者に傾倒することはとても怖いことなので、不健全なタイプ5は、あらゆる人間関係に対して虚無的で冷笑的になることで、 自分が孤立することを正当化しなければならない。そして、ここでの人間関係とは、人間性それ自体の価値に他ならない。

 消火ホースから強く水を浴びせれば、群衆を下がらせることができるように、彼らの凝り固まった頭は、 噴出する攻撃衝動で過熱し、自分に影響するようなものはすべて退ける。彼らは「背水の陣を敷き」、友情を断ち切り、仕事を辞め、生きるための最小限のもの以外は残らず捨て去る(「どうなろうと知ったことじゃな い!」)。それはまるで、最も基本的な生命維持装置だけを残して、あらゆるものを追放しようとしているかのようである。そうすれば何かに依存しなくてもすむし、誰からも何からも圧倒される心配はない。この流れ は極端に行きすぎることがある。不健全なタイプ5は、「世の中の仕組み」の一部にならないように、最後には自動車の中だけで生活したり、廃屋に身を潜めたりすることもある。自分の健康を気にしないし、身なりはかまわないし、食べ物はお粗末で、身体も洗わない。アルコールや薬物など、さまざまな物質依存は、この段階ではもうふつうのことであり、反抗の側面が出て来れば違法な麻薬の服用すら躊躇しない。何でも実験したい性質から、新種の「合成幻覚剤」やヘロインのように危険とわかっている薬物を試そうとした りもする。薬物はどのタイプにも有害であるが、タイプ5にとっては特に身体を衰弱させる元になるだろう。 不健全なタイプ5はすでに、自分の生命維持ということにすら関わる根本的な問題を持っていて、現実との繋がりは極端に薄くなっている。そこに薬物が加われば、自信はさらに損なわれるし、孤立の度合いはさらに深まって、堕落を加速させる。

 この段階では、不健全なタイプ5は、誰からも影響されないように、孤立を維持しなければならない と信じる。ふつうは暴力的ではないのに、わめき散らしたり、長文の非難文や弾劾文を書いたり、不機嫌で憎々しげに突然だんまりを決め込んだりする。たいていの人がこの種の行為に嫌悪感を持つので、タイプ5の孤立は急速に深まる。しかし、それはまさに不健全なタイプ5が求めたものである。しかもこれが原因となって、思考作用の歪みはこれまで以上にひどくなり、そのことで傷ついていく。他者からの「現実性点検」 はもう受けられないし、自分の認識を現実と対比することももうできない。ほんのわずかに残っている現実との繋がりも、増大しつつある恐怖に汚染される。あらゆる体験が無力感と人生の完全な無意味さを確認する働きをする。些細な問題にすら攻め立てられたと感じ、他者との交流はすべて、自分の脆い空間への侵略であると見なす。攻撃そして怖れは増大し続ける。

 不健全な段階にあるとき、自分の苦しみの程度を隠すことができる性格タイプもあるが、タイプ5は誰が見ても間違いなく不安定である。他者はその分裂の状態を見て、悲しみ、また、恐怖に襲われる。しかし、不健全なタイプ5の孤立は防衛としての攻撃なのであって、それによって介入を困難にさせる。「助けを必要とする」という気配を覚られることすら無力さと無能さへの怖れの引き金になって、病状を深刻化させる。不健全なタイプ5はまた、ある程度は論理的に考える能力を保持していて、少しでも前向きの情報が入ると巧みに言い抜け、自分の暗く破滅的な人生の見方が誤っているかもしれないという可能性を退ける。自分自身や他者にまったく何の期待も持っていないし、外観と同様に内実にも希望のない現実の中に引きこもる。

 世界を怖がり、世界に立ち向かう力のなさを怖がっているので、不健全なタイプ5は、暗くひねくれた幻想、他者への軽蔑観、自分の人生の空虚さに対する恐怖などが破滅的なほどにない交ぜになって苦しむ。行動したいし、過酷さでいっぱいになった頭を解放できることを何かしたいが、怖れで手足がすくんだと感じ、自分自身にも他者にも信頼が持てない。その結果、筋の通らない思考は、何の救いもなく、その力を強め続ける。自分を拒んだと信じている世界への激しい怒りでいっぱいになるが、それに対して何もできない無力さも感じて、他者との接触は一切避け、助けを求めることすらできない。まるで、自分自身に大目玉を食らわせることが止められないようなものである。不健全なタイプ5はまだ異彩を放ち、有能であるかもしれないが、その虚無主義は、能力を何か建設的なことに使うことで自信を築き上げられる好機をすべてぶち壊す。その代わり、人生のあらゆるものを破壊し、世界との結びつきはすべて価値を低め、また、拒否する。しかも、不健全なタイプ5はただ孤立しているというよりも、さらに悪い状態にある。他者との激しい葛藤を起 こしたくないので、攻撃と衝動でいっぱいになっても、それを解放することができない。不健全なタイプ5はこのようにして悲惨な板挟みに陥る。自分の攻撃に取り憑かれていても、結果が恐ろしくてそれを行動表出することができない。世界の中で何かを成し遂げたいが、態度が冷たく冷笑的になっているので、状況を良くするような活動にはまったく従事させてもらえない。その結果、彼らは何もせず、自分自身の頭の集中度だけは高まって、自分はその中にはまり込んでいく。

 

段階8ー怖がりの「異邦人」

 不健全なタイプ5は、孤立の中に引きこもっていけばいくほど、世界に対処する能力への確信が崩れる。 さらに、他者との接触が少なくなっているので、彼らの怖れに満ちた思考は、抑制も点検もされずに暴れ回るままになる。世界が自分を包囲し押し潰そうとしていて、どんな慈悲心も示そうとしないと感じるように なる。この段階では、タイプ5は活動と生きる条件を、これ以上は引き下がれないというぎりぎりのと ころまで切り詰めてしまっているので、引きこもる場所は残っていない。一人部屋に住んで、ほとんどその外に出ようとはしない。あるいは、文字通り友人や親類の家の地下室に潜伏する。たった一つ残った行き場所は、自分の頭の中深くであるが、その頭が恐怖の真の源であるため、結局はそれが破滅の元になる。
 段階8では、タイプ5は、環境によって引き起こされた感覚の記憶と、怖がっている思考から生まれる記憶の区別をすることが、驚くほどむずかしい。そのため、現実のすべてが、情け容赦なく焼き尽くす力に見 える。彼らにとって、世界は熱病で意識が混濁したときの夢、ヒエロニムス・ボスの絵から抜け出たような薄気味悪い風景のように見える。環境の中にあるもので慰めや安心の種になるものはほとんど何もな い。歪んだ認識を通して世界を見つめれば見つめるほど、恐怖に襲われ、絶望的になる。
 恐怖が広がり、強さを増すにつれて、すべてが恐ろしい暗示で満たされるので、彼らは現実を封じ込め、 ねじ曲げ、ついには何もすることができなくなる。このように、神経症的なタイプ5は、恐怖症によって行動能力を失い始める。生命のない物体が不気味な外観を帯びる天井は今にも自分の上に落ちてきそうだ し、肘掛け椅子は自分を呑み込むかもしれず、テレビは自分を脳腫瘍にしようとしている。幻覚を体験することもある声が聞こえたり、すべてが大きく歪んで見えたりする。自分の身体がエイリアンのように感じるようになり、以前は環境が自分に敵対するように見えるだけであったのに、肉体としての自分までもが自分に敵対しているように思う。神経症的なタイプ5は、警戒を怠ってはならないそして、頭を誠にすることもできないので、休むことも、眠ることも、気晴らしをすることもできない。その結果、肉体的にも疲れ果て、問題をひどくするだけになる。
 通常のタイプ5でも眠ることに悩んでいるが、不健全なタイプ5は文字通り眠ることができない。眠っていると邪悪な力が攻撃力を強めてくることが心配であるし、非常に暴力的で不穏な夢を見ることも怖い。頭を閉じる方法の一つとして薬物やアルコールの使用を増やすこともあるが、これは消耗を加速するだけである。不眠が続くと思考作用はさらに高まり、幻覚を生じるようになる。幼児期には押入の中にいた怪物が現実のものになる。怖れと不眠症で肉体は疲れ切り、感情は気まぐれに、身体はぼろぼろになる。
 神経症的なタイプ5がもっと怖れるようになるのは、思考がそれ自体の生命を持つように思えることである。自分の思考が統御不能であり、怯えていたくないときに自分を怯えさせる。頭は狂気のように空回りし、 恐怖から抜け出せないのではないかとひどく怖れるようになる。抜け出せないのは、結局はその怖れは自分自身の中で生じるからである。フランケンシュタイン博士のように、自分自身が生命を与えた作用によって破壊される危険に直面する。

 繋がりを見つけ、類似点のない諸事実から結論を引き出す健全な能力は、今や逆作用として働く。頭脳の脈絡はばらばらに崩れる。実際には何の根拠もない事柄を関連づけ、しかも、神経症的なタイプ5はそれらが関連していると信じて疑わない。鳥類の行動が政治動向の暗示となる。小鉢に入ったコーンフレークの中の干しぶどうの数が、地球的な大変動が起きるまでの月数の前兆になる。不健全なタイプ5は、生きることは無益で恐ろしいことであると考え、しかも、日常の細かい事象に飽くことなく悪意の意味を与え続ける。

 不健全なタイプ5が歪んだ思考が持つ破壊力を止めることができないのは、彼らの驚異的な精神エネルギーを建設的なことに吐き出させる出口を、ほとんど全部止めてしまったからである。彼らの頭は、設計負荷以上100ワットの電球に500ワットの電流がフィラメントを流れている電球のようになっている。彼らの思考は恐るべき強さで輝き、急速に燃え尽きようとしている。自分の恐ろしい思考と空想を止めることができず、自分でできることすらほぼ完全にできなくなっている。さらに悪いことに、他者からの援助にはすべて抵抗する。援助を受け入れればもっと無力になるのではないかと怖れるからである。援助を受けることは、自分自身が役に立たないこと、自分には対処する能力がないことを最終的に確認することにもなるだ ろう。誰が自分に接触しようとして来ても、その人を避け、その人から逃げることもありそうである。

 不健全なタイプ5の目には世界は唾棄すべきものと映っているので、「すべて」を破壊したい。激しい怒り、怖れ、攻撃はすべてを奪い尽くし、しかも、圧倒的なものになっているのに、その上なお、まだ行動することができず、あるいは、破壊的な衝動と感情を解放することができない。彼らの行動は常軌を逸し、筋が通らず、恐怖心すら起こさせるが、彼らの精神の中で爆発した混沌に対しては、まだまだ小さな反応でしかない。 人生は耐えがたいものになる。験が取り去られてしまったかのようで、彼らにはものが見えすぎるように思われる。しかし、頭が彼らを呑み込みつつあるというのが真実である。頭が恐怖でいっぱいになっているので、世界は恐怖に満ちたものになる。少しでも慰めや安心感を与えてくれるところは、頭の中にはまったくない。

 

段階9ー内側に爆発する精神分裂病者

 増大していく恐怖と絶望に対して、少しでも残っている統御を働かせようとして、神経症的なタイプ5は、ずっと使ってきたのと同じ防衛孤立と区分化を用いようとするが、病状もこの段階まで来ると、これらの方法も怖れをくい止めておくには効果がない。次第に分裂病的になり、精神の怯えている部分から離脱して、まだ残っていてその分裂に力を及ぼす感覚を与えてくれる着想や空想なら、どんなものとも一体化する。しかし、怖れの力は容赦なく突進を続け、安全な場所はどこにも、自分の頭の中にすら残されていないと感じさせるまでになる。

 最後には、神経症的なタイプ5は、世界の中の敵対する勢力や自分自身の頭の中の恐怖から、自分の身を 守ることはもうできないと信じるに至る。事実、この段階ではたいていのタイプ5がこの2つを見分けることができない。絶え間ない苦痛と恐怖というただ1つの体験に押しつぶされている。タイプ5はこの時点であらゆるものが止まって欲しい。彼らはすべての体験を忘却の中で終わらせるために、中断を求める。 彼らがとりそうな方法には、大きく分けて2つある。

 最初の方法で、しかもはっきりしているのは、自殺である。不健全なタイプ4と同じように、神経症的なタイプ5は、理由は少し異なるが、自分自身の生命を断つことになりがちである。タイプ4は自己嫌悪から自殺して、自分を見捨てたと感じている他者を無言のうちに非難する。タイプ5が自殺しようとするのは、 人生は無意味で恐ろしいと考えるからである。生きて存在し続ける効用はまったくない(もちろん、5w4と4w5とでは、この2つの動機は組み合わせは違って現れる)。不健全なタイプ5では、自分自身と世界の中に何を見ても、それらすべてが自分を恐怖と嫌悪で満たす。恐ろしい体験を終わらせるただ一つの途は、すべての体験を停止させることであると結論づける。ハムレットのように、「生き長らえない」期待が「願ってもない人生の終焉」になる。

 自殺を犯さなければ、不健全なタイプ5は、頭をどう統御するかという問題、特に、身を焼き尽くすような恐怖症によって生み出された圧倒せんばかりの不安を、意識を無意識のうちに二分割することで「解決」する。神経症的なタイプ5は、安全であると思える側に引きこもり、重症の精神障害に似た自閉症状態に退行する。

 この最終の段階では、タイプ5は、現実とのあらゆる接触を無意識のうちに断つことによって、現実から身を守ることもある。言い換えれば、不健全なタイプ5は自分の思考によって恐怖に陥っているので、 どうにかして恐怖を取り除かなければならない。彼らは、まだ残っている自己確認の意識から分離するときに自分自身の中に残した空虚さと一体化することを、その手段として選ぶ。実際、彼らは自分自身から自分 自身を切り離す。それはちょうど、死んだ子供の思い出で苦しむのを止めるため、両親が子供を思い起こさせるものは全部捨て去るのに似ている。その結果、神経症的なタイプ5は完全に空っぽの家、世界への恐 ろしく苦しい結合を思い出させるすべてのものを追放した自己ーに住む。
 このように、神経症的なタイプ5は精神的な虚脱状態へと堕落し、このような生き方を続ければ、十中八九、一種の精神分裂病に至る。

 以前にはあった知的な強さ、他者と関わる能力はすべて消え去る。この段階でのタイプ5は環境からも、他者からも、自らの精神生活からも考え、感じ、行動する能力から完全に隔離される。

 不健全なタイプ5は、自分自身と環境との間に距離を置くことについに成功したが、それは、自殺や分裂病による分裂を通して自分自身を完全に放逐するという代価を支払ってのことであった。しかし、皮肉なことに、タイプ5は、自信と人生に対処する能力を築くための時間と空間を手にしようとして現実から引きこ もるのに、最後には、怖れと孤立によって自信や才能だけでなく自分自身の生命すら破壊する。タイプ5が自分自身の生命を奪わないときは、精神面で深刻な現実からの分裂に陥る結果、無力さと依存と幽閉の人生、彼らが最も怖れた状況を生きることに終わる。自らを取り囲む恐怖から逃れるための最後の努力として、タイプ5は自分自身を環境から放逐しようとする。しかし、自分自身を放逐したのは、実際には現実からではなく、現実に対する不安の投映からである。彼らは、自分の思考と感情から自分自身を放逐することに成功したにすぎない。神経症的なタイプ5は、いったんこれに成功してしまうと、自分が自分自身の内部につくり上げた心の穴からでは、誰かに大声で叫ぶこともできなくなる。自己を追放した深い穴の底では、 すべてが空虚である。

 

感想

各段階の大凡の文字数

段階1:1877字

段階4:3161字

段階5:6103字

段階6:4153字

段階9:1911字

 

世の中の大体の人間は「段階5~6」と言われている。段階1、段階9といった「段階5(転回点)」から離れた段階の人間程目にする機会が少ないためか、説明の量も少なめになっている。

 

段階5:

より健全な段階にいるときでも仮想現実を創り出すようになれば、段階5に住みつき始めたということである。通常のタイプ5は、仮想現実を探究することで得ようとしていると自分が信じているものすべてから引き離されるようなことは、誰にもどんなものにもさせたくない。

 

段階6:

通常のタイプ5は、就職面接に臨んだり自動車の運転を習うことはできないかもしれないが、想像の世界で、世界を征服し、核の絶滅から生き残り、恐ろしいオカルトの力を振るうことはできる。

 

この書籍は2000年に出版されたものだが、当時からそういった概念は健在だったらしい。仮想現実・及び想像上の世界というのは、現実離れしたものである傾向があるようだ。段階を落ちるほど尚更。

 

タイプによって段階が落ちた時の行動が異なるのは周知の事実。とすると「仮想現実」にどっぷりというのは、タイプ5に特に見られる現象ということになる。健全な段階ではタイプ5と誤認されやすいタイプ1は、段階が落ちても現実に(形上は)留まるのに対して、タイプ5は現実から遠ざかっていく。

 

質の悪い事に、段階5~6においても、口から飛び出す理論の全てが間違っているとは限らない。しかし「真理」に到達することはない。これを咀嚼すると、持ってくるデータ、理論といったものはそれなりに整合性が”とれてはいる”が、そこから行き着く結論を大きく誤ったり、確証バイアスの影響を強く受けたり、意見の異なる他者を見下すようになる。こういった傾向は段階4以上のタイプ5には見られなかった傾向である。

 

タイプ5は健全な段階、通常の段階のどちらでも皮肉やどきついユーモアを口にすることがあるが、最大の違いは「諦めからくるジョークか否か」だろう。段階の低いタイプ5では、「何をしても無駄」というのが本心であり、他者に対して攻撃的だが、健全なタイプ5のジョークは「タブーを吹き飛ばす」性質を持っている。簡単に言えば、通常~不健全なタイプ5のジョークが「嫌味」であるのに対して、健全なタイプ5のジョークは、周囲の人間を笑わせると同時に「気付き」をもたらすものだろう。

 

個性的なネーミングの各段階の名称の中でも目を引くのは「段階6ー挑発的な皮肉屋」という名称。段階6から7に落ちる事は余程の事が無い限り起こりにくいので、不幸なタイプ5の多くは「挑発的な皮肉屋」に長く留まる事となる。タイプ5は段階7以降は「引きこもる」傾向が強くなる。つまりタイプ5の9段階の中で最も社会的に「問題のある」段階かもしれない。この段階6の特徴は「想像上の世界で有能であろうとすること」である。幸いなことに、近年では自分の頭の中で想像上の世界を創造せずとも、書店の軽い小説のコーナーで簡単に購入することが出来る。(もし浮世離れしたタイプ5の為のものであるとしたならば、彼らがこの世界で何かを為すことはあるのだろうか)。

 

口調がリソに似てきたわ。性に合わん。正直「異●●●生」って段階6のタイプ5にバカウケしている物だと推測している。支持者層の口調や攻撃的な言動がタイプ5の段階6のそれとドンピシャなんだよな。とすると、世界において成せる役割は何もない事になる。廃れることは無い分野だが、社会的な地位を得ることはない分野だろう。外れたら手のひらくるりんする予定。