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【ユングのタイプ論】内向的思考とは

タイプ論

タイプ論

 

P409~413より引用

 

「雑すぎる分かりやすいまとめ」

「要約」

「引用部分」

の順で読んでもらうと分かりやすい。

 

引用部分

 私は外向的思考について述べたさいに前もって内向的思考を簡単に特徴づけておいたので、それをここでもう一度参照していただきたい。内向的思考は主として主観的要因を基準にして自らを方向づける。主観的要因は少なくとも方向づけをする主観的な感情として現われ、これが最終的に判断を決定するのである。時にはこの感情は多少なりとも完成されたイメージでもあり、それがいわば規範として働くこともある。この思考は具体的な要素も抽象的な要素も扱えるが、しかし決定的な局面ではつねに主観的条件を基準にして自らを方向づける。それゆえこれは具体的な経験から出発して再び客観的な事物へ戻るのではなく、主観的な内容へ向かう。外的な事柄はこの思考にとって原因でも目的でもない。もっとも内向型の人が自らの思考にそうした外見を与えようとすることはよくあるが、たとえいかに現実的な事実の領域に深入りしていこうとも、この思考は主体の中で始まり主体に戻るのである。したがってこの思考は新しい事実を提示するという点では主として間接的な価値しかもっていない、というのはこれがまず第一に伝えるのは新しい見解であって、新しい事実に関する情報はほとんど伝えないからである。これは問題提起や理論を産み出し、展望や洞察を開くが、しかし事実に対しては冷淡な態度を示す。事実はこれにとってまさに具体的なイメージをもたせるための例証でしかなく、事実が優越するなどということはあってはならないのである。事実は証拠物件として集められるにすぎず、それ自体が求められるのではない。たとえ事実自体が求められている場合でも、それは実は外向的な風潮に合わせているにすぎない。事実はこの思考にとって副次的な意味しかもっておらず、これにとって中心的な価値をもっているように思われるのは、主観的な理念・彼の内なる眼に多少とももうろうとした姿しか見せていない最初の象徴的イメージ・を展開し表現することである。したがってこれが目指すのは具体的な事実を思考的に再構成することではなく、もうろうとしたイメージを明確な理念に発展させることである。これが獲得しようとする事実、これが見ようとする外的事実は、自らの理念の枠組みを埋めてくれるようなものであり、その創造力が真価を発揮するのは、この思考が外的事実の中にはないがそれを最も的確に抽象的に表わす理念をも産み出せる場合である。これがその任務を全うするのは、これによって創り出された理念が外的事実に由来するもののように見え、しかも外的事実によってその妥当性が証明されうるようになった時である。
 しかし、ちょうど外向的思考がつねに具体的な事実から役に立つ経験概念を抽出したり新しい事実を創造することができるとはかぎらないように、内向的思考もつねに自らの最初のイメージを事実に合致した理念に置き換えることができるとはかぎらない。前者の場合には純経験的な事実の寄せ集めによって思考内容がねじ曲げられ五感が窒息させられるとすれば、内向的思考の場合には自らの空想イメージを展開できるようにするため、事実を自分のイメージの中にむりやり押し込めたり、事実をまったく無視してしまう危険性をもっている。この場合そこに表わされている理念がもうろうとした太古的なイメージに由来するものであることは否定できない。こうしたイメージは神話的な特徴を帯びているが、これはたとえば「奇抜」であるとか、よりひどい場合には突拍子もないと思われてしまう、というのはその太古的な性格が神話的モチーフに精通していない専門研究者には見抜けないからである。この種の理念はふつう強い主観的な説得力をもっており、しかもその説得力は理念が外的事象と関係をもつ度合が少なければ少ないほど大きくなる。理念を信奉している人には、あたかもわずかばかりの事実材料が自らの理念の信憑性と妥当性の基盤や根拠であるかのように思われるが、しかし実際はそうではない。というのはその理念が説得力を獲得する源泉は無意識の元型だからであり、しかもこの元型はそれ自体で普遍的に妥当であり真理であり、永遠に真理であり続けるからである。ところがこの真理はきわめて一般的で象徴的であるため、これが唯一の生きた価値をもつ実際的な真理になるためには、つねにまず今この時に認知されている・認知されうる・認識にならなければならない。たとえば因果関係を例にとると、もしそれが実際の原因と結果という形で認知されないとしたら、因果関係と言えるだろうか。
 この思考はともすると主観的要因という巨大な真理の中に埋没して自分を見失いがちである。理論のための理論を構築しようとし、たしかに外見的には現実的な・少なくともありえそうな・事実に眼を向けているように見えるが、しかし理念の世界から出発して単にイメージの世界にしかないものへ向かおうとする傾向がはっきり認められる。それによって多くの可能性を直覚することはできるが、しかしそのうちのどれ一つとして現実のものとならず、結局のところ創り出されるのは、外的現実をもはや少しも表わしていない・まったく認識不可能なもののシンボル「にすぎない」・イメージである。そのためこの思考はわけの分からないものとなり、客観的事実の枠組みの中でしか展開されない思考とまったく同じように不毛になる。後者が事実を表象するだけの水準にまで沈みこむとすれば、前者はそもそも具体的なイメージなどもちえないようなものを表象しようとして自らを消耗してしまう。表象された事実は疑いようのない真理である、というのは主観的要因が排除されており、事実そのものが自らを立証するからである。同じように表象不可能なものの表象にも主観的には直接的な説得力があり、それが存在するというだけで自らを立証することになる。前者〔外向的思考〕が《それあり、ゆえにそれあり》と言うのに対して、後者〔内向的思考〕は《われ思う、ゆえにわれ思う》と言うのである。内向的思考が極端になると自分自身の主観的なあり方を分かりきったことと思うようになるが、それに対して外向的思考は自らが客観的事実とまったく同一であることを分かりきったことと思うようになる。ところで後者は客体と一つになりきることによって自分自身を否定してしまうが、前者はありとあらゆる内容を振り捨てて自分が存在するということだけで満足してしまう。こうしてどちらの場合においても生のいっそうの発展は思考機能によっては果たされなくなり、それまで相対的に無意識状態にあった他の心的機能の領域に任されることになる。内向的思考が客観的事実にうとい点を補償するのは豊富な無意識的事実である。意識が思考機能を用いて、ちっぽけで空虚きわまりないのに神性に満ちていると思っている領域に自らを限定すればするほど、無意識的な空想がますますのさばってきて、大量の太古的な様相を帯びた事実・呪術的非合理的要素の伏魔殿・で満たすのであり、しかもこの伏魔殿は、生の担い手として思考機能に取って代わった機能のあり方次第で独特の様相を呈する。もし取って代わったのが直観機能であるとすると、「裏側」がクービンやマイリンクの眼で見られるようになる。感情機能であるとすると、未曾有の幻想的な感情関係や感情判断が矛盾に満ちた理解しがたい性格を帯びて現われてくる。感覚機能であるとすると、自らの肉体の内部や外部にそれまで経験したことのない新しい感覚が見出される。こうした変化をより詳しく調べてみると、原始的な心理がそのあらゆる特徴を伴って現われていることが容易に見てとれる。もちろんこのときに経験されるものは単に原始的であるだけでなく象徴的でもあり、しかも古くて原初的に見えるものほどいっそう未来を孕んでいる。というのはわれわれの無意識に存する古いものはすべて、これから現われるものだからである。
 通常の状況の下では「裏側」へ移っていくことはとうていできないし、ましてや無意識を無事に潜り抜けることなどできるはずもない。移っていくことが阻まれるのは、ほとんどの場合自我が無意識的な事実性・無意識的客体に現実に備わっている規定する力・に屈服してしまうことに対して、意識が抵抗するためである。この状況は一種の分裂状態である、言い換えると内的消耗と頭脳疲労の増大すなわち神経衰弱という特徴をもった、神経症である。

 

要約

主観的要因

内向的思考は、主観的要因を基準にして自らを方向づける。主観的要因は方向づけをする主観的な感情として現われ、これが最終的に判断を決定する。時にはこの感情は多少なりとも完成されたイメージでもあり、それがいわば規範として働くこともある。

内向的思考は具体的も抽象的も扱えるが、決定的な局面ではつねに主観的条件を基準にして自らを方向づける。

内向的思考は、具体的な経験から出発して再び客観的な事物へ戻るのではなく、主観的な内容へ向かう。

 

事実に対しての態度

外的な事柄は内向的思考にとって原因でも目的でもない。

内向型の人が自らの思考に、外的な事柄を与えようとすることはよくあるが、たとえいかに現実的な事実の領域に深入りしていこうとも、内向的思考は主体の中で始まり主体に戻る。

内向的思考は新しい事実を提示するという点では、間接的な価値しかもっていない。というのは内向的思考が伝えるのは新しい見解であって、新しい事実に関する情報はほとんど伝えないからである。

内向的思考は問題提起や理論を産み出し、展望や洞察を開くが、しかし事実に対しては冷淡な態度を示す。事実はこれにとってまさに具体的なイメージをもたせるための例証でしかなく、事実が優越するなどということはあってはならないのである。

事実は証拠物件として集められるにすぎず、それ自体が求められるのではない。たとえ事実自体が求められている場合でも、それは実は外向的な風潮に合わせているにすぎない。

事実は内向的思考にとって副次的な意味しかもっておらず、中心的な価値をもっているように思われるのは、主観的な理念・最初の象徴的イメージを展開し表現することである。

目指すのは具体的な事実を思考的に再構成することではなく、もうろうとしたイメージを明確な理念に発展させることである。

外的事実は、自らの理念の枠組みを埋めてくれるようなものである。

 

内向的思考が真価を発揮する時

・内向的思考が外的事実の中にはないが、それを最も的確に抽象的に表わす理念を産み出せる場合。

・内向的思考によって創り出された理念が外的事実に由来するもののように見え、しかも外的事実によってその妥当性が証明されうるようになった時。

 

事実を無視してしまう可能性

事実を自分のイメージの中に無理やり押し込めたり、事実を無視してしまう危険性をもっている。

 

事実を無視した理念が、太古的なイメージに由来するものであることは否定できない。こうしたイメージは神話的な特徴を帯びているが、これはたとえば「奇抜」であるとか、よりひどい場合には突拍子もないと思われてしまう。

 

太古的なイメージと普遍性

太古的なイメージに由来する理念はふつう強い主観的な説得力をもっており、しかもその説得力は、理念が外的事象と関係をもつ度合が少なければ少ないほど大きくなる。理念を信奉している人には、あたかもわずかばかりの事実材料が自らの理念の信憑性と妥当性の基盤や根拠であるかのように思われるが、しかし実際はそうではない。

 

その理念が説得力を獲得する源泉は無意識の元型であり、しかもこの元型はそれ自体で普遍的に妥当であり真理であり、永遠に真理であり続ける。

 

ところがこの真理はきわめて一般的で象徴的であるため、これが唯一の生きた価値をもつ実際的な真理になるためには、つねにまず今この時に認知されている・認知されうる・認識にならなければならない。

 

たとえば因果関係を例にとると、もしそれが実際の原因と結果という形で認知されないとしたら、因果関係と言えるだろうか。

 

内向的思考とイメージ

内向的思考は主観的要因に埋没して自分を見失いがちである。理論のための理論を構築しようとし、たしかに外見的には事実に眼を向けているように見える。

しかし理念の世界から出発して単にイメージの世界にしかないものへ向かおうとする傾向がある。それによって多くの可能性を知ることはできるが、しかしそのうちのどれ一つとして現実のものとならない。

結局のところ創り出されるのは、外的現実をもはや少しも表わしていない・まったく認識不可能なもの、シンボルにすぎないイメージである。

(つまり実用性皆無の概念ばかり作り出す)

そのため内向的思考は訳の分からないものとなり、客観的事実の枠組みの中でしか展開されない思考とまったく同じように不毛になる。

 

外向的思考と内向的思考の比較

外向的思考

・事実を表象するだけの水準にまで沈みこむ。

・表象された事実は疑いようのない真理である、というのは主観的要因が排除されており、事実そのものが自らを立証するからである。

《それあり、ゆえにそれあり》と言う。

・極端になると、自らが客観的事実とまったく同一であることを分かりきったことと思うようになる。

・客体と一つになりきることによって自分自身を否定してしまう。

 

内向的思考

・具体的なイメージなどもちえないようなものを表象しようとして自らを消耗してしまう。

・表象不可能なものの表象にも主観的には直接的な説得力があり、それが存在するというだけで自らを立証することになる。

《われ思う、ゆえにわれ思う》と言う。

・極端になると、自分自身の主観的なあり方を分かりきったことと思うようになる。

・ありとあらゆる内容を振り捨てて自分が存在するということだけで満足してしまう。

 

どちらの場合においても、生のいっそうの発展は思考機能によっては果たされなくなり、それまで相対的に無意識状態にあった他の心的機能に任されることになる。

(MBTIのインザグリップ状態と類似の現象)

 

他の機能の台頭

内向的思考が客観的事実にうとい点を補償するのは豊富な無意識的事実である。意識が思考機能を用いて、ちっぽけで空虚きわまりないのに神性に満ちていると思っている領域に自らを限定すればするほど、無意識的な空想がますますのさばる。大量の太古的な様相を帯びた事実・呪術的非合理的要素で満たす。

 

しかも生の担い手として思考機能に取って代わった機能のあり方次第で独特の様相を呈する。もし思考機能に取って代わったのが

直観機能であるとすると、「裏側」がクービン(画家)やマイリンク(小説家)の眼で見られるようになる。

感情機能であるとすると、未曾有の幻想的な感情関係や感情判断が矛盾に満ちた理解しがたい性格を帯びて現われてくる。

感覚機能であるとすると、自らの肉体の内部や外部にそれまで経験したことのない新しい感覚が見出される。

※クービン(画家)とマイリンク(小説家)…神秘的な、幻想的な作風の芸術家。

 

原始的な心理が、そのあらゆる特徴を伴って現われている。もちろんこのときに経験されるものは単に原始的であるだけでなく象徴的でもあり、しかも古くて原初的に見えるものほどいっそう未来を孕んでいる。というのはわれわれの無意識に存する古いものはすべて、これから現われるものだからである。

 

分裂病

通常の状況の下では「裏側」へ移っていくことはとうていできないし、ましてや無意識を無事に潜り抜けることなどできるはずもない。

移っていくことが阻まれるのは、ほとんどの場合自我が無意識的な事実性・無意識的客体に現実に備わっている規定する力・に屈服してしまうことに対して、意識が抵抗するためである。この状況は一種の分裂状態である、言い換えると内的消耗と頭脳疲労の増大すなわち神経衰弱という特徴をもった、神経症である。

 

雑すぎる分かりやすいまとめ

主観的要因

内向的思考は、事実ではなく、先に脳内で完成されたイメージが基盤にある。具体も抽象もいけるが、脳内イメージをめっちゃ重視する。

 

事実に対しての態度

事実には興味が薄い。とりあえず証拠として集めとけマインドで集めている。内向的思考は、事実そっちのけで、脳内で始まり脳内に戻る。事実も意味があるが、最も重要なのは自分の理念&最初の象徴的なイメージ。事実はこれの補強材料。脳内イメージを明確な理念に発展させたい。

 

内向的思考が真価を発揮する時

・そもそも新しい理論を作れた時。

・新しく作った理念がマジっぽく見えて、運良く合致する具体的事実が見つかった時。

 

事実を無視してしまう可能性

脳内イメージ>事実になる可能性がある。

現実ガン無視の独自理論が、太古的なイメージに由来することがある。こうしたイメージは神話的な特徴を帯びているが、他の人から見ると、頭の狂ったマジキチ理論にしか見えない。

 

太古的なイメージと普遍性

太古的なイメージに由来するマジキチ理念はふつう強い主観的な説得力をもっている。この説得力は、現実ガン無視度が高いほど大きくなる。

 

マジキチ理念の謎の説得力は、無意識の元型によるもの。ユングの元型。元型はそれ自体で永遠に真理であり続ける。しかし抽象的すぎて実用性皆無。これを実用化するには、具体的な理念に加工する必要がある。

 

内向的思考とイメージ

内向的思考は、可能性やイメージばかり追っかけて、事実や実用性が皆無の糞理論を作りまくる傾向がある。テラ不毛。

 

外向的思考と内向的思考の比較

外向的思考

・事実バンザイ。

《それあり、ゆえにそれあり》と言う。

・極端になると、自分=客観的事実と思う。

・客体と一つになりきることによって自分自身を否定してしまう。

 

内向的思考

・イメージがどうのこうの。

《われ思う、ゆえにわれ思う》と言う。

・極端になると、自分自身の主観的なあり方=当たり前のことと思う。

・自分が存在するということだけで満足してしまう。

 

どちらの場合においても、思考機能じゃダメだわ他の機能にバトンタッチ、ということで、それまで無意識状態にあった他の心的機能に選手交代する。

(MBTIのインザグリップ状態と類似の現象)

 

他の機能の台頭

事実の代わりに無意識的事実を使って補強する、という斬新過ぎる策を打つ。脳内ヒキニートになればなるほど、無意識的な空想がますますのさばる。大量のオカルト要素が脳内に湧いてくる。

 

思考機能とタッチ交代した機能によって、状況は異なる。

直観機能であるとすると、オカルトじみた眼で外界を見るようになる。

感情機能であるとすると、感情が矛盾に満ちた理解しがたい感じで現れてくる。

感覚機能であるとすると、自らの肉体の内部や外部に新しい感覚が見出される。

結論:どれもヤバイ

※クービン(画家)とマイリンク(小説家)…神秘的な、幻想的な作風の芸術家。

 

これらには原始的・象徴的な要素が反映されている。しかも古くて原初的に見えるものほど未来を孕んでいる。

 

分裂病

通常の状況の下では、完全オカルト脳内無意識空間へゴーすることはできない。

理由:意識が「そっち行ったら絶対ヤバイ」と止めるから。この状況は分裂状態といえる。要するに統合失調症。

 

考察

内向的思考が結構「元型」の影響を受けているという話が初出。事実をガン無視する傾向がある、脳内ビジョンが先行する、といったことはMBTIでも考慮されている。しかしどちらかというと、INTP寄りの説明に見える。

 

内向的思考と元型の話を詳しく知りたいが、他のページに書いてあるか。

 

結論:内向的思考単品だと役に立たねえ

というと極論だが、傍から見ると、よく分からん理論をこねくり回している実用性皆無のアンポンタンに見えているというのは事実。

 

余談:

クービン - Google 検索

思考機能に代わって直観機能が台頭してくると、デフォルトがこのテンションになるらしい。本題と全く関係無いが、この画風いいな。