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【ユングのタイプ論】内向的直観とは

タイプ論

タイプ論

 

P430~432より引用

 

「雑すぎる分かりやすいまとめ」

「要約」

「引用部分」

の順で読んでもらうと分かりやすい。

 

引用部分

 内向的な構えにおける直観は、無意識の諸要素と呼んでもよいような、内的客体に向けられている。すなわちこの内的客体は、たしかに物質的な現実ではなく心的な現実ではあるが、意識に対して外的客体とまったく同じような関係をもっているのである。内的客体は直観的知覚に対して事物の主観的イメージの形で現われるが、この主観的イメージは外的経験の中に見出されうるものではなく、無意識の・結局は集合的無意識の・内容をなしている。もちろんこれらの内容それ自体は、いかなる経験もそこへは到達できないという、外的客体と共通の特性をもっている。ちょうどわれわれが外的客体をまったく相対的にしか知覚していないように、内的客体の現象形態も相対的である、すなわちその形態は、われわれには到達不可能な内的客体の本質と、直観機能の特性との産物である。感覚と同じように直観も主観的要因をもっているが、外向的直観の場合これが可能なかぎり抑圧されているのに対して、内向的直観の場合決定的な要因になっている。たとえ内向的直観がその最初のきっかけを外的客体から受け取るにせよ、それは外的な可能性で終わることなく、外的なものによって内面に触発されたものに目を向けていく。内向的感覚が主として無意識によって生じる独特な神経刺激伝達現象を知覚することに自己限定してそこに留まるのに対して、〔内向的〕直観は主観的要因のこうした側面を抑制し、この神経刺激伝達が誘発したイメージを捉えるのである。たとえばある人が心因性の眩暈発作に襲われたとしよう。この場合感覚はこの神経刺激伝達の障害という特異な症状に止まってしまい、その性質・強さ・時間的な流れ・発現と消失の経緯・といったすべてをそのあらゆる細部にわたって捉えはするが、しかしそれ以上のことは何もせず、またその障害の源泉である内容にまで迫ることもない。これに反して直観が感覚から受け取るのは最初のきっかけだけであり、そこから即座に活動が始まる。直観は感覚の背後を見ようとし、しかもまさに眩量発作という表現された現象を引き起こした内的イメージをただちに知覚する。直観が見出すのは、心臓を矢で射抜かれてよろめいている男のイメージである。直観の活動はこのイメージに引きつけられて離れず、あらゆる細部を探索しようと試みる。直観はこのイメージをしっかりと掴んで、このイメージが変化し・さらに発展し・ついには消失してしまう様を、眼を輝かして見届ける。

 このようにして内向的直観は意識の背後にあるあらゆる過程を、ある意味で外向的感覚が外的客体を捉えるのと同じくらいに明瞭に捉える。したがってこの直観にとっては無意識的イメージが、〔外向的感覚にとって〕事物ないし客体がもっているような高い地位を獲得する。ところがこの直観は感覚の協力を撥ねつけてしまうため、神経刺激伝達の障害・無意識的なイメージが及ぼす身体への影響・をまったく、ないし不十分にしか認識できない。このためそのイメージは主体から切り離され、本人とは何の関係もなくそれ自体で存在しているように思われてしまう。したがって先述した眩暈発作に襲われた内向的直観型の人の場合には、捉えたイメージが何らかの形で自分自身と何か関係がありうるなどとは思ってもみない。もちろん判断する構えの人にはそのようなことはほとんど考えられないことと思われようが、しかしそれでもこれは私がこのタイプにおいてしばしば経験してきた事実なのである。

 外向的直観型の人が外的客体に対して示す驚くべき無関心さを、内向的直観型の人も内的容体に対して示す。ちょうど外向的直観型の人が絶えず新しい可能性を嗅ぎ出しては自分や他人の幸不幸などお構いなしにその後を追いかけ、人間的な思いやりなどどこ吹く風と、永遠に変化を追い求めるあまり、まだほとんどでき上がってもいないものを早くも打ち壊してしまうように、内向的直観型の人もイメージからイメージへと渡り歩いて無意識という多産な子宮のもつあらゆる可能性を追い求めながら、そこから現われてくるものを自らと結びつけようとはしないのである。ちょうど世界を感覚的にしか捉えない人にとって世界が道徳的な問題となることがけっしてないように、直観型の人にとってもイメージの世界が道徳的な問題となることはけっしてない。世界はこの双方にとって審美的な問題・知覚の問題・「感じ」・なのである。このようにして内向的直観型の人には、自分に身体が存在することも、それが他人に影響を及ぼすことも意識されなくなってしまう。外向的立場から彼を批評するならば、「彼にとって現実は存在せず、彼は何の実りもない夢想にふけっている」ということになろう。無意識のイメージを観照することは、汲めども尽きぬ創造力を産み出すとは言え、もちろん直接役に立たないという意味では非生産的である。しかしこうしたイメージが場合によってはエネルギーの新しい流れを促すような見解を産み出す可能性をもっているという意味において、外的世界から最も縁遠いこの機能も、ちょうど同タイプが民族の心的生活にとって欠くことのできないものであるように、心の収支決算全体にとっては不可欠なのである。もしもこのタイプが存在しなければ、イスラエル民族に預言者が現われることはなかったであろう。

 内向的直観が捉えるイメージは、ア・プリオリに備わっている・すなわち遺伝によって備わっている・無意識的精神の基盤に由来するものである。これら諸元型の最奥の本質は経験によっては捉えられないが、これらは先祖代々営まれてきた心的機能の諸活動の沈澱物・すなわち有機的存在全体の諸経験が何百万回も繰り返されることによって雄積し圧縮されて一定のタイプになったもの・を表わしている。したがってこの元型は原初の時代からこの惑星で営まれてきたあらゆる経験を代表しているのである。その経験が頻繁で強烈なものであるほど、元型の中にいっそうはっきりと現われる。カントの言葉を借りれば、元型とはイメージの《可想的存在》のようなものであり、それを直観が捉えて、知覚として産み出すものである。ところで無意識はけっして心の《死せる残滓》としてそこにあるだけのものではなく、むしろわれわれの中でともに生きており、内的変化・すべての現象一般と内的に関連した諸変化・を経験しているのであるから、内向的直観が内的諸過程を知覚すれば、すべての現象を理解するためにきわめて重要なある種の資料が得られる。それどころかこれには新しい可能性だけでなく、後になって現実に生じることを多少なりとも明瞭な形で予見することすら可能である。これが預言者的な洞察をもたらすことは、これがあらゆる経験可能な事柄の法則的な経緯を表わす元型と関連していることから説明がつくのである。

 

要約

内向的直観とは

内向的直観は、無意識の諸要素と呼んでもよいような、内的客体に向けられている。

 

内的客体とは

物質的な現実ではなく心的な現実ではあるが、意識に対して外的客体と全く同じような関係をもっている。

 

直観的知覚に対して、内的客体は主観的イメージの形で現われる。この主観的イメージは集合的無意識に見出される。我々が外的客体を相対的にしか知覚していないように、内的客体の現象形態も相対的である、

 

すなわちその形態は、われわれには到達不可能な内的客体の本質と、直観機能の特性との産物である。

 

主観的要因

感覚と同じように直観も主観的要因をもっている。

外向的直観の場合、主観的要因が可能なかぎり抑圧されている。

内向的直観の場合、決定的な要因になっている。

 

感覚と直観の捉え方の違い

たとえ内向的直観がその最初のきっかけを外的客体から受け取るにせよ、それは外的な可能性で終わることなく、外的なものによって内面に触発されたものに目を向けていく。

 

内向的感覚が主として無意識によって生じる独特な神経刺激伝達現象を知覚することに自己限定してそこに留まる。

内向的直観は主観的要因のこうした側面を抑制し、この神経刺激伝達が誘発したイメージを捉える。

 

心因性の目眩の例

たとえばある人が心因性の目眩に襲われたとしよう。

感覚

この神経刺激伝達の障害という特異な症状に止まってしまい、その性質・強さ・時間的な流れ・発現と消失の経緯・といったすべてをそのあらゆる細部にわたって捉えはするが、しかしそれ以上のことは何もせず、またその障害の源泉である内容にまで迫ることもない。

直観

感覚から受け取るのは最初のきっかけだけであり、そこから即座に活動が始まる。直観は感覚の背後を見ようとし、しかもまさに眩量発作という表現された現象を引き起こした内的イメージをただちに知覚する。直観が見出すのは、心臓を矢で射抜かれてよろめいている男のイメージである。直観の活動はこのイメージに引きつけられて離れず、あらゆる細部を探索しようと試みる。直観はこのイメージをしっかりと掴んで、このイメージが変化し、さらに発展し、ついには消失してしまう様を、眼を輝かして見届ける。

 

直観にとっての無意識的イメージの重要性

内向的直観は意識の背後にあるあらゆる過程を、ある意味で外向的感覚が外的客体を捉えるのと同じくらいに明瞭に捉える。したがってこの直観にとっては無意識的イメージが、外向的感覚にとって事物ないし客体がもっているような重要性をもつ。

 

イメージと身体への影響の認識

直観は感覚を動員しないため、神経刺激伝達のイメージが及ぼす身体への影響をまったく、ないし不十分にしか認識できない。

 

そのイメージは主体から切り離され、本人とは何の関係もなくそれ自体で存在しているように思われてしまう。したがって先述した目眩に襲われた内向的直観型の人の場合には、捉えたイメージが何らかの形で自分自身と何か関係がありうるなどとは思ってもみない。

 

客体(感覚)への無関心さ

外向的直観型の人が外的客体に対して示す驚くべき無関心さを、内向的直観型の人も内的容体に対して示す。

 

外向的直観型の人

絶えず新しい可能性を嗅ぎ出しては自分や他人の幸不幸などお構いなしにその後を追いかけ、人間的な思いやりなどどこ吹く風と、永遠に変化を追い求めるあまり、まだほとんどでき上がってもいないものを早くも打ち壊してしまう。

内向的直観型の人

イメージからイメージへと渡り歩いて無意識というあらゆる可能性を追い求めながら、そこから現われてくるものを自らと結びつけようとはしない。

 

感覚と直観

世界を感覚的にしか捉えない人が世界を特に疑問視しないように、直観型の人もイメージの世界を疑問視することはない。

 

世界はこの双方にとって審美的な問題・知覚の問題・感じ・なのである。このようにして内向的直観型の人には、自分に身体が存在することも、それが他人に影響を及ぼすことも意識されなくなってしまう。

 

内向的直観の非生産性

外向的立場から内向的直観の人を批評するならば、「彼にとって現実は存在せず、彼は何の実りもない夢想にふけっている」ということになろう。無意識のイメージを観照することは、創造力を産み出すとは言え、直接役に立たないという意味では非生産的である。

 

内向的直観の必要性

しかしこうしたイメージが、場合によってはエネルギーの新しい流れを促すような見解を産み出す可能性をもっているという意味において、外的世界から最も縁遠いこの機能も、心全体にとっては不可欠なのである。もしもこのタイプが存在しなければ、イスラエル民族に預言者が現われることはなかったであろう。

 

内向的直観と無意識

内向的直観が捉えるイメージは、遺伝によって備わっている、無意識的精神の基盤に由来するものである。

 

無意識的精神の本質は経験によっては捉えられないが、これらは先祖代々営まれてきた心的機能の諸活動によって、一定のタイプになったものを表わしている。

 

無意識は我々の中で生きており、すべての現象一般と内的に関連した諸変化を経験している。内向的直観が内的諸過程を知覚すれば、すべての現象を理解する事に役立つ。

 

内向的直観の予見性

新しい可能性だけでなく、後になって現実に生じることを多少なりとも明瞭な形で予見することすら可能である。これが預言者的な洞察をもたらすことは、これがあらゆる経験可能な事柄の法則的な経緯を表わす元型と関連していることから説明がつくのである。

 

雑すぎる分かりやすいまとめ

内向的直観とは

内向的直観は、無意識の諸要素、内的客体に向けられている。

 

内的客体とは

物質的な現実ではなく心的な現実ではあるが、意識に対して外的客体と全く同じような関係をもっている。

 

内的客体は主観的イメージの形で現われる。この主観的イメージは集合的無意識に見出される。我々が外的客体を相対的にしか知覚していないように、内的客体の現象形態も相対的である、

 

すなわちその形態は、われわれには到達不可能な内的客体の本質と、直観機能の特性との産物である。

 

主観的要因

感覚と同じように直観も主観的要因をもっている。

外向的直観の場合、主観的要因が可能なかぎり抑圧されている。

内向的直観の場合、決定的な要因になっている。

 

感覚と直観の捉え方の違い

たとえ内向的直観がその最初のきっかけを外的客体から受け取るにせよ、それは外的な可能性で終わることなく、外的なものによって内面に触発されたものに目を向けていく。

 

内向的感覚が主として現象を知覚することに限定して留まる。

内向的直観は現象が誘発したイメージを捉える。

 

心因性の目眩の例

たとえばある人が心因性の目眩に襲われたとしよう。

感覚

障害をあらゆる細部にわたって捉えはするが、しかしそれ以上のことは何もしない。その障害の源泉である内容にまで迫ることもない。

直観

感覚から受け取るのは最初のきっかけだけ。眩量発作という表現された現象を引き起こした内的イメージを直ぐに知覚する。直観が見出すのは、心臓を矢で射抜かれてよろめいている男のイメージである。直観はこのイメージに夢中になる。

 

直観にとっての無意識的イメージの重要性

内向的直観は意識の背後にあるあらゆる過程を、ある意味で外向的感覚が外的客体を捉えるのと同じくらいに明瞭に捉える。したがってこの直観にとっては無意識的イメージが、外向的感覚にとって事物ないし客体がもっているような重要性をもつ。

 

イメージと身体への影響の認識

直観は感覚を動員しないため、イメージが及ぼす身体へのダイレクトな影響をまったく、ないし不十分にしか認識できない。

 

そのイメージは主体から切り離され、本人とは何の関係もなくそれ自体で存在しているように思われてしまう。さっきの目眩に襲われた内向的直観型の人は、捉えたイメージが何らかの形で自分自身と何か関係がありうるなどとは思ってもみない。下手するとイメージに夢中になっている内にぶっ倒れる。

 

客体(感覚)への無関心さ

外向的直観型の人が外的客体に対して示す驚くべき無関心さを、内向的直観型の人も内的容体に対して示す。

 

外向的直観型の人

永遠に変化を追い求めるあまり、まだほとんどでき上がってもいないものを早くも打ち壊してしまう。

内向的直観型の人

イメージからイメージへと渡り歩いて無意識というあらゆる可能性を追い求めながら、そこから現われてくるものを自らと結びつけようとはしない。

 

感覚と直観

世界を感覚的にしか捉えない人が世界を特に疑問視しないように、直観型の人もイメージの世界を疑問視することはない。

 

世界はこの双方にとって「感じ方」なのである。このようにして内向的直観型の人には、自分に身体が存在することも、それが他人に影響を及ぼすことも意識されなくなってしまう。

 

内向的直観の非生産性

外向的立場から見た内向的直観の人「現実ガン無視、生産性皆無の夢想にふけっている」内向的直観は、創造力を産み出すとは言え、直接役に立たない。

 

内向的直観の必要性

しかしこうしたイメージが、場合によっては超新しい見解を産み出す可能性をもっている。外的世界(S)から最も遠いこの機能も、心全体にとっては不可欠。

もしもこのタイプが存在しなければ、預言者が現われることはなかった。預言者は多分内向的直観型のすごい人。

 

内向的直観と無意識

内向的直観が捉えるイメージは、遺伝によって備わっている、無意識的精神の基盤に由来するものである。

 

無意識的の本質は経験ではなく、先祖の心的機能の諸活動の遺産。無意識は我々の中で生きており、色々なことを知っている。内向的直観が内的諸過程を把握できれば、すべての現象を理解する事に役立つ。

 

内向的直観の予見性

新しい可能性だけでなく、予言も可能である。元型やら無意識やらと関連しているかららしい。

 

考察

非常に説明しにくいが、超簡単に言うと「集合的無意識とか元型とかを元にしたイメージを捉える機能」として解釈できる。自信がないんで間違っていたらすまん。

 

ややこしいので補足しておくと、内向的直観が捉えるイメージは、無意識を元にしたものであって、無意識や元型そのものではない。

 

「他のタイプから理解されにくい機能」とかMBTIの公式本で見た気がするが、確かに分からん。頭では分かったが、感覚的にピンとこないわ。